光のきざはし - 16章 XREA.COM

一面が金色に染まった。光は高く掲げられた『鏡』から零れ、少年の体を包み込
む。それはあたかも太陽の光で紡いだ衣のようだった。深い夜空の色をした髪さえ
も黄金に輝いている。眩しさに目を細めながらも、その場にいる全員が動きを止め
て少年を見つめていた。
あふれ続ける光に溶けて『鏡』が消えた。その輝きも、やがて皮膚に染み込んで
いくように薄れていった。視界が元に戻っていく。完全に光が消えると、少年は黒
い瞳を開いた。
「……リジェ……?」
どことなくいつもと違う雰囲気でたたずむ少年を見て、訝しげにラサが呟いた。
名を呼ばれた少年は視線だけを動かして応える。
「その名を持つ少年はこの肉体の内に眠っている。我は空の高み、天界に在りてす
べての天則を守護する者。光の化身にして『最期の審判』の主宰者なり」
「! ……光の、精霊……」
ヤージュが目を見張った。自分達が精霊を呼び出すときとは様子が違いすぎる。
人間の体を支配するなど、並大抵のことではない。天界の精霊は格が違う。だが、
リジェが願ったのはただの手助けのはず。あえて人の体を介して、精霊は何をする
つもりなのだろうか。
光の精霊はゆっくりと辺りを見渡した。
「天則に従いて、我はすべてを見定めんがために来た。創造の手を持つ人間よ、常
に世界を変革する者よ、そなたらに問う。滅びを望むか?」
ヤージュがつまらなそうに目を細めた。
「そんなもん望んでねーからオレ達はここまで来たんだっつーの」
「そうよ! 世界中にどれだけの人がいるか知らないけど、そのほとんどの人がま
だ死にたくないって思ってるわ、きっと」
聞かれるまでもないことに、ラサも続けて即答した。アルヴィナもラサの台詞に
大きくうなずく。この世界でやりたいことはまだたくさんあるのだ。
「だが世界中の人間の力が今、滅びをもたらそうとしているのだ」
一人、カルマンが薄笑いを浮かべた。リジェの体を通した光の精霊の視線が止ま
る。
「確かにそなたが操る力には多くの人間の意思の力を感じる。しかし我の目はごま
かせんぞ。それらの意思には指向性がない。滅びを導いているのはそなたの意志だ」
カルマンの顔から笑みが消えた。目が細められる。
「そなたら人間が望めば天則すら変化する。だが、そなた一人の意志では認めるわ
けにいかぬ。我は天則の守護者。そう簡単に『秩序』を失わせはしない」
「……まあ、そんなところだろうとは思ったがな。だが……」
カルマンが動いた。
「貴様さえ倒せば『秩序』の崩壊は楽になるというもの!」
「!!」
カッと青白い閃光が放たれた。一直線にリジェの体を狙っている。誰も動けない。
かばうにしても遠すぎた。雷の槍がリジェを貫くかと思われた。刹那、金色の光の
壁が現れてそれをはねかえした。拡散した雷撃の一部がカルマンの腕をかすめる。
「お兄様!」
安堵する間もなくアルヴィナの顔から血の気が引いた。思わず駆け寄りそうにな
るが、ヤージュの腕がそれを引き止めた。非難の目でアルヴィナが振り返るが、そ
の程度ではヤージュは動じない。
「今あの男に近づいたって何もできやしねぇよ」
「ですがっ……!」
「ねぇアルヴィナ、リジェを信じてよ」
ぽん、と肩に手を置いてラサが言った。動揺する少女に、大丈夫と力強くうなず
いてみせる。やると言ったら必ずやる、リジェはそういう人だから。
それでも青ざめたままのアルヴィナの耳に、光の精霊の声が聞こえた。
「それほどまでに争いによって解決したいか。ならばそなたの望む方法で我は天則
を守ろう」
「それで結構! 我が先祖の怨み、今ここで晴らしてくれる!」
両手に力を集中させながら、カルマンは口の端を上げた。対するリジェの体から
も金色の光があふれ出す。
さすがにラサも焦りを感じた。
(ちょっと、リジェ! 何やってるのよ。このままじゃ……)
「いやぁっ! やめてください!!」
アルヴィナの悲痛な叫びを背後に、二つの力がぶつかり会おうとした、まさにそ
の瞬間。

    違う!

声がその場にいる全員に聞こえた。二つの光が消える。ラサがパッと表情を明る
くした。リジェの声だ!
    僕は争いなんて望んでない。アルヴィナと約束したんだ、カルマン王を
   『混沌』の呪縛から解き放ってみせるって。だから……。
「………………」
光の精霊はしばらく黙っていたが、やがて顔を上げて言った。
「確かに我は急いていたかもしれぬ。我はそなたに力を貸す者。そなたの望むよう
にするが良い」
「リジェ!」
カクンと力の抜けた体を駆け寄ったラサが支えた。その腕の中で黒い瞳に輝きが
戻る。
「あ、ラサ……ありがとう」
微かに顔を赤くしつつ、リジェは慌てて自力で立った。真顔に戻り、カルマンに
まっすぐな視線を向ける。おもしろくなさそうにカルマンも見つめ返した。
「争いを望まないだと? よく言ったものだ。それではどうやって私を止めるつも
りなのだ」
「貴方の心は『混沌』の支配を受けている。それは体に『混沌』を取り込んでいる
からだ。それなら貴方の体に『秩序』を取り戻してやれば……」
「無駄だ」
カルマンはリジェの言葉を容赦ない口調で遮った。何も聞かぬと表情が語ってい
る。しかしだからと言って引き下がれる場面ではなかった。
「でもアルヴィナにはできた。光の精霊の力を借りれば貴方だって……」
「アルヴィナは自らの意志で『混沌』に逆らったのだ。肉体の消滅も顧みずにな」
ちらりと視線が少女に向いた。一瞬だけ目が合う。祈るような視線。しかしカル
マンはそれを振り払った。
「私は違う。そのような意志は持っていない。私はすでに『混沌』の一部なのだ」
「そのようなことはございませんわ!」
たまりかねてアルヴィナが叫んだ。
「お兄様はお優しい方です。復讐なんて本当は望んでいらっしゃらないはずです」
「黙れ!」
小さな雷光が閃いて、アルヴィナの足下を撃った。びくりと肩を震わせる。こち
らの話にまったく聞く耳を持たないカルマンに、ラサは眉をつりあげて抗議した。
「ちょっと、あんた兄妹なんでしょ!? なんてことするのよ!」
「兄と呼ぶなと言ったはずだ」
「何よっ、アルヴィナが心配してるのが解らないの!?」
頭にそうとう血が上っているらしい。態度が妙に喧嘩腰になっていた。その激昂
ぶりを見て、あぁそうかとリジェが心でうなずいた。ちらりと聞いた彼女の過去を
思い出す。
(ラサは知っているから……。大切な人を失う怖さを、どんなに思っても力及ばな
いときの苦しさを知っているから、あんなに怒ってるんだ。思いが届かないもどか
しさに怒ってるんだ)
悲しみはそれを体験した者にしか解らない。ラサの悲しみは彼女にしか解らない。
リジェは知り得ぬ痛みを思って少女を見つめていた。
「アルヴィナの気持ちも少しは考えてやりなさいよ!」
「黙れと言っている!」
「ラサッ!」
ハッとしてリジェが手を伸ばした。同時に雷鳴が轟く。間に合わない。
「っ!」
避けきれずラサは全身がしびれるのを感じた。一瞬、息が詰まる。
「ラサ!!」
少女はなす術もなく床に倒れた。わずかな沈黙が不安を急激に膨ませる、が。
「……っとに、今日は私、怪我ばっかりね……」
「おまえの要領が悪いんじゃねーの?」
安堵のため息をつく代わりにヤージュが茶化した。ラサも「失礼ねー」と返して
みせるが、起き上がることはできないでいた。なんとか意識を保っている、といっ
た様子だ。
「何てことを……」
アルヴィナは俯いて肩を震わせた。もう、本当に戻れないのだろうか。優しい兄
はどこにもいないのだろうか。意を決して、握りしめた手に力を入れた。熱いもの
が頬を伝う。
「……力をお貸しください。風の精霊、速やかに渡る駿馬よ」
空気が動いた。ひょうと風が吹く。
「待って、アルヴィナ!」
「……いいんですのよ、リジェ」
「よくないよっ!」
肩を掴み、鋭い口調で叱りつける。いいはずがない。僕はまだ何もしていない。
なのに、諦められてたまるか。それではせっかく光の精霊がくれた猶予が何の意味
もない。
「アルヴィナ……。僕に出来るだけのことはやらせてよ。後悔したくないんだ。お
兄さん、助けたいんでしょ?」
「………………」
何も言えないでいると、床に転がったままのラサが声をかけた。
「私のことで怒ってくれるのは嬉しいわ。でもね、怒りで本当の心を見失わないで。
私は死んだわけじゃない、怪我しただけ。アルヴィナが治してくれるわよね?」
「でも……私の治癒の力は……」
事実を知ってしまった今となっては白呪なんて使えない。うろたえながら答えよ
うとするが、ラサの微笑みに言葉をなくす。
「……大丈夫。私、こんな歌も知ってる。『風は医薬を吹きもたらせ、我らが心に
幸福を与え、爽快を与うるところの。風よ、……』」
それは、古い古い歌。かすれた声でラサが歌う。途端にアルヴィナは頭が冴え渡
るように感じた。風は医薬を吹きもたらす。ああ、そうだ。空界の精霊の力を思い
出す。表情が微かに明るさを取り戻した。一も二もなくラサの傍らに膝をついて掌
をかざした。
「風の精霊よ、汝は我らの父なり、また兄弟なり、また友人なり。かかる汝は我ら
が生存しうるごとくなせ」
ふわりと優しく風がラサを包み込む。清々しい空気に身を委ね、ラサは体が軽く
なるのを感じた。傷がすっかり綺麗になる。リジェはそっと胸を撫で下ろした。体
が自由になると、ラサは上半身を起こしてにっこり笑った。
「ほら、私は大丈夫。だから、落ち着いて考えて。何がしたいのか」
「……私は……」
「アルヴィナ、ラサもこう言ってる。僕にやらせてくれるかな」
「………………はい」
涙混じりでうなずいた。どうして彼等はこんなにも優しいのだろう。こんな時で
はあるけれど、ひどく心が満たされていくのをアルヴィナは感じていた。
「くだらん」
吐き捨てるような声がした。そこにはいらただしげな色も見えていた。
「無駄だと言ったはずだ。私はアルヴィナとは違う」
「やってみなくちゃ、解らない」
リジェが正面からカルマンと向かい合った。
(体内に『混沌』を抱えているといっても一部のはずだし、今の状態では人間とし
て存在しているんだ。『秩序』でちゃんと支えてやればきっと普通の体になる!)
精霊を呼び出すため、リジェは目を閉じて意識を集中させた。
「いい加減にしろ! 私の邪魔をしたければ戦って私を倒せ!」
「うるせーな。そうすっと後味悪いんだよ!」
閃く雷からリジェを守るべくヤージュが前に出た。そのすきにリジェが詠唱を始
める。
「我願わくは、知悉する者に会わんことを。たちどころに道を指示しうる者に、そ
はこれなりと言いうる者に。我願わくは、汝の力強き天則の光もて、彼の者を照ら
さんことを」
両手を前に突き出した。両の掌のうちに輝きが集まる。さながら小さな太陽だっ
た。
(どうか、成功しますように)
黒い瞳が開かれた。
「ヤージュ、どいて!」
「よし!」
ヤージュが床を蹴るのとほぼ同時にリジェの手から光が放たれた。それは目で追
うことができない速さでカルマンを直撃する。
「ぐっ……」
光は細い糸となってカルマンの体を取り巻いていく。実体のない糸は引き剥がす
事はかなわない。苦々しげに彼はうめいた。
「お兄様……」
「大丈夫よ、きっと」
全員がただ一点だけを見つめていた。これがうまくいかなかったときにはどうな
るのだろう。考えたくない。今はひたすら祈るだけだ。カルマンが呪わしい運命か
ら解放されるように。
彼だって『混沌』をもって生まれさえしなければもっと違う人生を歩んでいたに
違いないのだ。そしてその体質は彼自身の責任によるものではない。彼は、ひいて
はヴァストル=シーンは世界が誕生するときの不幸な犠牲者だったのだ。
「それを、危険だからって強制的に人格から何から排除するなんて、利己的じゃな
いか。そんなの、よくないよ!」
リジェの腕に力が入った。呼応して光が輝きを増す。
「や……めろ……! 見るな。私を見るなっ!」
(え……?)
「お兄様!?」
何か変だ、と思ったとき。リジェの中に光の精霊の声が響く。
   ……………………。
カルマンを包んでいた光が消えた。
「そんな……」
呆然と呟きながら、リジェはゆっくりと首を巡らした。視線が、銀の髪を持つ少
女の上で止まる。嫌な予感。アルヴィナはビクリと肩を震わせた。怖い。でも確か
めずにはいられない。そっと、口を開く。
「駄目……ですの?」
「あ……」
「駄目ですのね」
少年の戸惑いは少女の確信だった。悲しみに目を閉じる。その姿に胸が痛んで、
リジェは首を振った。少女を悲しませることには変わりないのかもしれないけど。
「違うんだ。カルマン王の肉体を『混沌』から解放することはできるんだ。でも…
…」
「貴様……それ以上言うな!」
カルマンが鋭い目付きでリジェを睨みつけた。その眼光に、思わず口を噤む。リ
ジェも、言うべきかどうか迷っているのだ。
「貴様らにとって、私は『秩序』を乱すもののはずだ。神という虚言によって貴様
らの先祖を、同胞を殺した、憎悪の対象であるべきなのだ!」
そう叫ぶ青年の姿に、わずかだが変化が見えた。なんとなくだが、輪郭がぼやけ
ている気がする。本人も気付いているのだろうか、いくらか早口になる。
「それなのに何故こんな事をする! 殺せばいい!」
一瞬、辺りが静まり返る。彼は、死にたいのだろうか? 何故?
「おあいにくさま」
疑問を振り切ってラサが胸を反らした。
「貴方の一族と違って、少なくとも私はそんな大昔のことをずっと憎み続けていら
れるほど根気強くないの。別に貴方に家族を殺されたわけでもないし」
「そーそー。さっきも言ったけど、後味悪いしな」
「第一、僕達は戦いにきたんじゃない。大切なものを守りたいだけだ」
声に後押しされたように、アルヴィナが一歩前に出た。
「お兄様。私はお兄様のことが大好きです。だから、お助け申し上げたいのです。
お教えください、何を考えていらっしゃるのですか?」
「………………」
ふっと、カルマンは息を吐いた。もう、時間がない。あきらめたように表情が和
らぐ。先程までとは全然違う、穏やかな笑みがちらりと浮かぶ。
「おまえがそういう子だからこそ、私のことを忘れるか、いっそ憎んでくれればい
いと思ったんだがな……」
「お兄、様……?」
カルマンの姿がぼやけているのは今や誰の目にも明らかだった。かすかに読み取
れる表情が、優しい。
「ねぇ、リジェ。どうなってるの!? 彼の体、消えちゃうわよ!」
ラサがこっそりと尋ねた。さっき肉体は『混沌』から解放できると言ったのに。
戸惑いと焦りが声に混じる。リジェはそれに気付きながらも無表情で答えた。
「天則に従って、在るべき姿に還ろうとしているんだ」
「在るべき姿って……今とは違うの?」
それをいま言うのが辛くて、リジェは質問を無視した。訝しげな青い瞳が彼を覗
き込んでくるが、何も言わない。今は言えない。
カルマンはすっかり落ち着いていた。そこにいるのはアルヴィナが良く知ってい
る、聡明で優しい兄だった。
「アルヴィナ……おまえは私とは違う。もっと自由に生きられる」
「何をおっしゃっているのですか? そんな、そんな……」
遺言みたいなこと、とはさすがに口にできなかった。しかし意に反して涙が零れ
てくる。どうして泣くのだ。まるでこれっきり会えないみたいではないか。
必死に涙を堪えようとする妹を見て、カルマンは寂しげに笑った。
「その顔が見たくなかったから、あそこまでしたというのに」
差し出した指は、もう涙をぬぐってやることもできなかった。全身が透けている。
「お兄様……」
「笑っていてくれ、アルヴィナ。私などいなくても、おまえなら大丈夫だから」
触れることのできない体で、カルマンは妹を抱きしめた。そして一言。
「さらばだ」
「! ……いやぁーっ!」
カルマンの体が完全に消えた。
「お兄様、お兄様ぁっ」
泣きじゃくるアルヴィナ。足に力が入らず床に座り込む。震える背中が痛々しか
った。
「リジェ……。光の精霊はおまえに何を言ったんだ?」
ヤージュに促され、リジェは一度顔を伏せた。しかしいつまでも黙っているわけ
にもいかない。意を決して顔を上げる。
「アルヴィナも聞いていてね。貴女に一番伝えたいことだから」
「…………」
声をかけられて、アルヴィナは振り返った。真摯な黒曜の瞳がこちらを見ている。
アルヴィナは涙をぬぐった。自分の力で立ち上がり、小さくうなずく。それに応え
てリジェは口を開いた。
「カルマン王は……本当はもう、亡くなっていたんだ」
「!?」

「ごめんなさいね」
目を閉じて、かつて人であることを手放した女が小さく呟いた。透き通るように
白い肌はいっそう蒼白になっている。
「私達の我が儘で、貴方に仮初の生を与えた」
「おまえがヴァストルでないことなど解っていたのに、復讐に巻き込んでしまった」
男が顔を伏せながら言う。この妹思いの王が生まれたときのことを思い出してい
た。生まれ落ちると同時に死を迎えた王子。息を吹き返したのは奇跡などではない。
天則をねじ曲げ、生と死の境界を踏みにじっただけだ。友の復讐を果たせる日が近
いと感じたから。彼の魂を早く悠久の時の流れから救い出したいと思ったから。
「だが、復讐はかなわなかった。ヴァストル……おまえはまだ時の中を彷徨うか?」

「そんな、お兄様が……」
「だから『混沌』から解放し、天則に従わせればすでになかった存在になるってわ
けか」
「うん」
リジェは唇を噛みしめながら答えた。こんな結果になるとは思いもしなかった。
殺せといった言葉も何もかも、消えるのが怖かったから? 違う。アルヴィナの涙
を見たくなかったから。
「光の精霊が、こうも言ってた。『この者はもはや何も望んでいない』って。もう
望みは叶えられているからって」
「望みって……『混沌』の復活じゃなかったの?」
ラサの問いにリジェはうなずいた。
「彼の望みは唯一つ」
そこで一呼吸おいて、リジェは優しく微笑んだ。できるだけカルマンの心が伝わ
るように。悲しむ顔が見たくないから、いっそ憎んでくれればいいと言った、彼の
望み。
「『アルヴィナが幸せに生きること』だそうだよ」
「私の……幸せ……?」
せっかくぬぐったのに、また涙が溢れる。止まらなくて、両手で顔を覆った。
「そんな……私の幸せでしたら、お兄様だっていらっしゃらなくては嫌ですわ」
「そうもいかなかったって事か。おまえさんの望みが叶えば消えちまうんじゃな」
ヤージュの言い方が、今は少し丸い気がした。
「そうすっと『混沌』の復活だって、本気だったか怪しいな」
「うん……。アルヴィナを生かすため。それだけだったんじゃないかな」
それは推測でしかないけれど。精霊に守られたアルヴィナは『混沌』に怯える必
要はない。だから彼は態度を急変させたのではないか。それ以上『混沌』を復活さ
せようとする理由はない。ただアルヴィナの望みは結果として彼女を悲しませるだ
ろうから、彼女に自分を憎ませようと。
リジェは口を噤んでうつむいた。無性に辛かった。何も知らずにいた自分、無力
だった自分、すべてを責めてしまいたかった。
「リジェ、ありがとうございました」
「え……」
顔を上げると、正面に空色の瞳があった。
「お兄様の本当の気持ちを伝えてくださって、本当にありがとうございました」
「そんな、僕は何も……」
「感謝しています」
涙で腫れ上がった顔にアルヴィナが笑顔を浮かべた。一瞬遅れて、金色の光が宙
に現れる。
「光の精霊!」
四人は一斉に光を見上げた。それは緩やかに降りて来る。
    今こそ審判の時。我はすべてを見定めん。
四人ともに聞こえる声で精霊は言った。目の高さよりやや上で静止する。精霊の
発する輝きを見つめながらリジェは思った。何を審判するのだろう、と。
(結局、誰一人としてこの世界の破滅を願ってなんかいなかった。今更この場で何
をしようというんだろう)
    『秩序』は守られた。だが人間のすべてが我らとの絆を取り戻すのは容易
   ではない。人々は真実を知らなすぎる。これからしばらくは人の心は乱れるであろう。
(ま、これまで信じてた神サマが実は嘘でしたってんじゃ混乱もするわな)
すっかり白けてしまって、ヤージュが胸中で茶化した。だからどうした、と思う。
    それはそなたらがなんとかしようとするかも知れぬ。しかし我は審判する。
   彼の者に人々を惑わしてきた償いをする時間を与えよう。
「時間を与えようって……」
四人は精霊の意図が掴めずに戸惑いの色を見せた。やがてアルヴィナがおずおず
と尋ねる。
「彼の者というのはお兄様のことでしょうか……?」
    そうだ。世界を崩壊の寸前まで導いた、その業を贖ってもらわねばならぬ。
   そのための時間を与えよう。
アルヴィナの両手の内に光とぬくもりが現れた。
    彼の者の魂に新たなる命を授けよう。
「新たな命!?」
リジェの叫びを合図にして光が凝固していった。輝きがおさまり、アルヴィナの
手の内で、それははっきりとした形をとる。ぬくもりは消えない。
    その者は真実を伝えるために生きることになるだろう。自由なる意思で真
   実を見出だすだろう。さればその者、大切に育むが良い。
「これが……カルマン=シーン?」
アルヴィナの手元を覗き込んで、ヤージュが間の抜けた声を上げた。そこにいる
のは白い布にくるまれた元気な赤ん坊だった。
「うわー、なんか可愛い! でもこれじゃお兄さんって呼べないね」
「まあ、本当ですわ。どうしましょう」
真剣に悩んだ表情のアルヴィナを見て、リジェが吹き出した。思いもよらない審
判に皆が顔をほころばせた。声を上げて笑うのが、ひどく久し振りに感じた。
「良かった、本当に……」
リジェが心の底から呟く。同時に、光の精霊が再び上昇し始めた。
    少年よ、もし天則を見失うようなことがあれば再び我を呼ぶが良い。我は
   いつでも世界のすべてを照らし出そう。
「はい。ありがとうございました」
笑顔でうなずく。喜んでいるかのように、光は宙でぱんっと弾けて消えた。

「いいえ、もう終わりにしましょう。子供達は皆、復讐より人を愛することを選ん
だわ。……どうして気付かなかったのかしら。ヴァストル、本当は貴方もそうだっ
たのね?」
「馬鹿だったな、お互いに。もっと早く言えば良かった。あの時、おまえが再び姿
を現した時に言えば良かった。……忘れたことなんてない。オレ達はずっと、親友
だよ……」
「だから……一緒に行きましょう……」
 金の瞳はどこか遠くを見つめていた。ラーフィスはぐっとケーティアの肩を抱き
寄せる。二人の上にも金の光がさらさらと降り注いだ。一瞬、光の彼方に懐かしい
誰かが振り返ったように見える。その人影に手を伸ばし、そして……二人は光に消
えた。

 世界中に光が溢れていた。太陽が蘇る。天へと昇る光の粉は柔らかな陽射しに反
射して、いっそう眩く輝いた。まるでそれは、天上に至る光の階段のようで。
「……綺麗」
 誰かがそっと呟いた。