光のきざはし - 14章 XREA.COM

 いつしか廊下は一本道になっていた。三人は奥へ奥へと足を動かし続ける。不思
議と、ここまで誰ともすれちがわなかった。宮殿の中からすべての人間が消えてし
まったかのように感じる。不気味な静けさが辺りを支配していた。
「この先が、最終舞台だって言ってたな」
 ヤージュは、ふとラーフィスが言っていたことを思い出した。その表情は険しい。
言いたいことを理解したラサがうなずいて言葉を継いだ。
「一人、足りないわね」
 風の精霊の声を聞く者がいない。『空の翼』はまだリジェの懐に眠っていた。そ
れをそっと服の上から押さえて、リジェはぐっと顔を上げた。
「でも、行くしかない。太陽だって隠れたままだ。のんびりしてたら手遅れになる」
「解ってるって。この際、仕方ないよな」
「大丈夫よ、絶対。物語は幸せな結末のほうがいいに決まってるもの」
 三人はうなずきあった。必ず世界を、大切な人を、守ってみせる。
 やがて、正面に一つの扉が見えた。廊下の突き当たり。これ以上進む道はない。
立ち止まって深呼吸一つ、リジェはゆっくりと取っ手に触れた。振り返ると二人は
無言でうなずく。いよいよだ。取っ手を回し、そして一気に押し開けた。勢いで三
人とも部屋に踏み込む。
 そこには、栗色の髪をした一人の青年が立っていた。ゆっくりと振り向いて、威
厳ある視線を投げかける。
「君達をここに招いた覚えはないのだがな。無断で入ってくるとは不作法な子供だ」
 言葉の内容に対して、その声に拒絶はなかった。かといって友好的な響きもない。
ただ、来るべきものが来ただけ。そんな感じだった。
「しかしずっと探していた相手だからね。まさかアルヴィナと一緒とは思わなかっ
たが、来てくれて嬉しいよ」
「そのわりにはぞんざいな扱いだったことで」
 皮肉めいた口調でヤージュが呟いた。それを聞き咎めて青年が微かに首を傾げる。
「おや、客人として丁重にもてなすように言っておいたはずだが」
「部屋に押し込んでただけじゃねーか」
 この宮殿にあってアルヴィナを呼び捨てにできる人間など、一人しかいなかった。
すなわち彼こそが、カルマン=シーン=アネサリア。この世界を背負っている聖王。
そんな人間を相手に乱暴な口をきくヤージュを、今は誰も止めなかった。緊迫した
空気の中、何か喋りでもしていないと動けなくなりそうだった。それほどまでに異
様な力がリジェ達を押さえ込んでいた。カルマンは対照的に余裕ありげな笑みを見
せている。
「すまないな。こちらにもいろいろと都合があってね」
「アルヴィナは? アルヴィナはどうしてるの?」
「あれならここにいる」
 カルマンの声と同時に、こちらからは背もたれに隠れて見えなかった少女が、椅
子から立ち上がった。振り返り、静かに歩み寄ってくる少女の顔は確かに見知った
ものだった。が、何かが違う。
「……アル、ヴィナ……?」
 戸惑いを隠せずにラサが呼びかけた。しかし答えはない。リジェはキッと正面か
らカルマンを見据えた。
「アルヴィナに何をしたんですか?」
「……私は何もされていませんわ」
 囁くような声だった。そして、どこか冷たい声。
「ただ、思い出しただけ……」
「思い出した?」
 鸚鵡(おうむ)返しに口を開きながら、リジェは先刻の嫌な予感が一段と強くな
るのを感じた。カルマンの言葉がそれにかぶさる。
「そう、我らが一族の宿命を、アルヴィナは今思い出したのだ。おまえ達への憎悪
と共にな、精霊の声を聞く者よ!」
 頭を殴られたような思いがした。憎悪……何故?
「幾星霜の昔、貴方達が私を見捨てたのではありませんか。それ以来の私の宿命…
…『混沌』の復活を! 邪魔はさせませんわ」
 冷たい光を宿した空色の瞳でアルヴィナは言いきった。その額で、青い石をつけ
た銀の輪が同じ光を放っていた。
「どうして……」
(見捨てたってどういう事? それでなんで『混沌』を復活させようとするの!?)
「覚えていませんの?」
 心を読んだかのような絶妙な瞬間にアルヴィナが言った。不安そうな少女に向け
て淡い笑みを浮かべる。ラサは胸元で手をきつく握りしめた。
 ふと、アルヴィナは隣の兄を見上げた。
「お兄様、どうぞこの方達は私にお任せになって。お兄様は先に準備を進めてくだ
さいませ。私もすぐに参りますわ」
「いいだろう。好きにするが良い」
 うなずいてカルマンが一歩下がった。アルヴィナは正面に向き直ると艶やかな微
笑を浮かべた。
「さぁ、教えてさしあげますわ。己の真実を信じる貴方達に、それがどれほど欺瞞
に満ちたものなのかを!!」
 瞬間、世界が光に満たされた。

「誰も知らないほどの昔。生命が根付くための地界と、秩序……天則を守るための
天界、そして二つの間を支える空界が造られましたわ。それがこの世界」
 気がつくと四人は空にいた。体を支えるべき地面は遥か下のほうに広がっている。
現実とも幻ともつかない空間にリジェ達三人は足下を見て瞬きした。一人アルヴィ
ナだけが変わらぬ表情で言葉を続けている。
「けれど生まれたての世界はまだ脆かった。……それはご存じですわよね?」
「だからなんだよ。もったいつけやがって」
 まわりくどいのは好きではない。ヤージュはいらただしげに少女の空色の瞳を見
つめた。だがアルヴィナはまったく意に介さない。
「まだ不完全な世界。あちこちに『混沌』の影がひそんでいますわ。そして世界の
繁栄のために数々の生命が生まれました」
「そして天則の定める安定した世界を造るために精霊が生まれた」
 リジェが言葉を続けると、アルヴィナは目を細めた。
「そうですわ。そうして『混沌』は次第に世界から消えていきました。でも……」
 そこで言葉を切ると、アルヴィナは突如に肩を震わせた。小さくうつむき、右手
を口元に当てる。銀の髪を微かに揺らして、彼女はクスクスと笑っていた。
「…………?」
 さも愉快そうに笑っているのだ。その理由が見当もつかず、リジェ達は呆然とし
た。そんな三人に奇妙に優しい声がかけられる。
「そうですわよね、貴方達は知らなかったんですものね。知っていたのなら見て見
ぬふりをしていたことになりますもの。貴方達にそんな事できるわけありませんわ
よね」
 また、クスクスと笑う。
「だから何のこ……!」
 ムッとして叫んだヤージュの言葉がとぎれた。一瞬、気の強い彼ですらひるむよ
うな鋭い眼光が体を貫いた。表情こそ笑っているが、少女の瞳にあるのは明らかな
憎しみの色だった。口からゆっくりと言葉がもれる。
「そうは言いましてもね……『知らない』では許せないことってありますのよ」
 すっとアルヴィナは眼下を指差した。その先に一人の人間が見える。
「ヴァストル=シーン、私の先祖ですわ」
(『シーン』……。ヴァストル=シーン!?)
 言うまでもなく『シーン』は今の王族の姓。そして、その名……ヴァストル。そ
れはラーフィスが言っていた古い友人。彼等が救いたい者の名前。あそこを歩いて
いるのがそうなのだと、リジェはある種の感慨を持って大地を見下ろした。
「なっ……!?」
 変化は唐突に起こった。ぐにゃり、と空間がねじれたような錯覚に陥る。ついさ
っきまで何ともなかった空間に説明不可能な穴が開いていた。すなわち『混沌』。
一本の糸のほつれが大きなほころびを生むように、穴は急速に広がっていった。
「ちっ!」
 放っておけないと思ったのだろう。ヴァストルは両手を交差して目を閉じ、集中
を始めた。精霊を呼ぼうとしているのだとリジェ達には解る。だが、一人で何とか
できるのだろうか。『混沌』の広がり方は尋常ではない。
「…………っ!」
 ざわり、と『混沌』がヴァストルの足を捕らえた。彼の表情に恐怖が混ざる。引
き抜こうにもすでに彼の足はその形をとどめていなかった。
「!」
 思わず助けに行こうとしたリジェを、アルヴィナの白い腕が制した。
「これは過去の記憶ですのよ。行ったところで何もできませんわ」
「あ……」
「貴方は一部始終を見ていればよろしいのです」
 何か言おうと思ったが、何もできないのは事実。言うべき言葉が見つからずに押
し黙る。けれど、何が起ころうとしているかはもう予想がつく。
 ヴァストルは懸命に『混沌』から逃れようともがいていた。完全に取り込まれて
しまえば存在そのものが消えてしまう。ただの「人であったかもしれないもの」に
なってしまう。
「くっ、こんな所で……誰にも知られず消えてしまうというのか!?」
 叫び声は空しく辺りに響いた。見える限りの場所に人はいない。絶望が彼を襲う。
すでに『混沌』は彼を捕らえて放さなかった。
「……天則に従い、天則を守るものよ……。ここへ!」
 それが、最後の言葉だった。『混沌』を消すべく現れた精霊は一足違いだった。
「………………」
(憎悪……このためか)
 やり切れなさにラサは目をつむった。リジェとヤージュも表情をこわばらせた。
駆けつけてやれなかった人間、間に合わなかった精霊。わずかなすれ違いが一人の
男に憎しみを抱かせた。
「ヴァストル=シーンは消えませんでしたわ。その身の内に『混沌』を抱えたまま
この世界に帰ってきたのです。救いを与えてくれなかった精霊への怒りと共に。そ
して彼は転輪聖王となりました」
「それで、この世界を再び『混沌』に還そうと……?」
「ええ。その理由がありましたからこそ戻ってこられたんですもの。……これは、
世界に対する私達の復讐ですわ。とくに、精霊に守護されている貴方達への、ね」
 瞳に青い炎がついたようだった。数え切れない時代を越えた憎しみが、その相手
を目の当たりにして激しく燃え上がっていた。
「さぁ、お解りになったでしょう。世界が私達にどんな仕打ちをしたのか! これ
は償われるべきですわ!」
 アルヴィナの右手が宙に掲げられた。その瞬間、景色が変化する。果てしなく広
がる荒野。空は紫がかって、ちらちらと明滅していた。空気が重い。激しく風が巻
き、アルヴィナの右手に収束していった。掲げた掌に闇が生まれる。
 ヤージュが軽く舌打ちした。
「だからって、何でそんな大昔の事でおまえが復讐に乗り出したり、オレらが責任
とったりしなきゃならねぇんだよっ」
「この時のために代々つくりあげてきた力、見せてさしあげますわ!」
(つくりあげてきた……?)
 こうっと音を立てて黒い光とでも呼べそうな球体が放たれた。それをかわしなが
ら、リジェは頭に疑問符を浮かべた。自分達が使っているのは精霊の力を借りたも
のだ。では彼女の力は? 司祭の行う奇跡や白呪、これらは一体なにを指している
のか。
 考えている間にも攻撃は続いた。立て続けに地面が爆発する。かろうじて避けは
するが、爆風に煽られて平衡を失う。たまらずラサが尻餅をついた。そこへ容赦な
く光が襲いかかる。
「水の精霊よ!」
 とっさに叫ぶが、次の瞬間、強い衝撃が体中を走った。体が吹き飛ばされ、堅い
地面に叩き付けられたのが解る。全身いたる所から上げられる悲鳴と、誰かが名前
を呼ぶのを遠くに聞きながら、ラサは考えていた。
(精霊、間に合わなかった……? 違う。応えてくれなかった……。どうして?)
「ラサッ!!」
「……うっ……」
 リジェが駆け寄って力の抜けた体を抱き起こした。頬にできたすり傷からうっす
らと血がにじんでいる。それはひどく痛々しかったが、打撲以外にひどい怪我はな
いようだった。ほっとして肩の力が抜けるが、すぐさまヤージュの叱咤が飛んだ。
「ぼさっとしてんな、次来るぞ!」
 言いながら二人の前に立つ。長い詠唱をしている暇はない。走り込んできた勢い
そのままに、手を突き出して叫ぶ。
「大地の精霊、我を守る盾となれ!」
 黒い光が迫って来る。地面はぴくりとも動かなかった。
「!?」
(くそ……!)
 そのまま光はヤージュに直撃した。痛みが全身の力を奪う。が、彼は立ったまま
耐えた。
「ヤージュ……ッ!」
 少女の肩を抱いたまま、リジェは友の名を叫んだ。避けられないわけではなかっ
たはずなのに、自分がここにいたせいでヤージュは動かなかった。己のいたらなさ
に唇を噛みしめる。
「どってことねーよ、この位」
「う……ん……」
 背後で泣きそうな顔をしているであろう幼馴染みに向けて、ヤージュはそう言っ
てやった。それでリジェが安心するかといえば多分無理だろうが。それでも意識も
飛ばないし、立っていられるのだから、リジェの無茶に比べれば本当にどうと言う
事はない。
(それにしても……)
 奇しくもリジェとヤージュが考えたのは同時だった。
(精霊が応えなかった?)
「まだ解りませんの?」
 嘲笑が二人の耳に届いた。細い腕を組み、こちらを見下すようにアルヴィナは立
っている。
「ここは私が創造した空間。そう簡単に精霊を招き入れたりはできませんわよ」
 空間をつくっただって? しかも世界の構成に関わる精霊を排除して?
「そんな馬鹿な!? ただの人間にそんな芸当できるはずが……」
「神の力、といったところかしら?」
 二人の狼狽する様子をおもしろそうに見ながらアルヴィナは笑った。
「我が先祖は神の創造主。ヴァストル=シーンはこの世界を『混沌』へと還すため
の絶大な力を得んと神という架空の存在をつくったのですわ」
 自分がつくりだした存在から力を得る。それがどういう事なのか、しばらく意味
を計りかねた。しかし続けられた言葉に、リジェは事実に行き当たる。
「そして私達は信仰という名の巨大な力を得ましたわ」
「! そうか、神というのは人々の力を集めるための記号にすぎなかったんだ!」
「記号?」
 ヤージュが振り返って訝しげな瞳を向けた。リジェはそれにうなずいて答える。
「人間の意思の力を信仰という形で一か所に集中させていたんだ。彼女達はその信
仰の対象に近い存在だから、集められた信仰心を自分の力に変換して使える。……
こういうことでしょう?」
「その通り。人は自らの力で世界を破滅に導くのですわ。なんとも愚かだと思いま
せん?」
「……やめて」
 目を開けたラサが、よろめきながら立ち上がった。にじんた血と土埃に汚れた顔
は悲しみに歪んでいる。
「アルヴィナ、……変だよ。らしくないよ。アルヴィナは私達と判りあいたいって
言ったじゃない。血を流したくないって言ったじゃない。なんでそんな言い方する
の?」
「黙りなさい!」
「きゃああっ」
 衝撃波がラサを襲った。吹き飛ばされそうになるのを、すんでのところでリジェ
が支える。
「人間のことなどどうでも良いのです。私はこの世界に復讐するのですから」
「お姫さんよぉ、ほんっとにそれがあんたの考えなのか? ラサも言ったけど、こ
の間までのあんたはオレ達と信じるものこそ違ったけど、『人を守りたい』『人の
ためになりたい』ってのはちゃんと考えてたはずだ。それは嘘だったとでも言うの
か?」
 過去を見せつけられたからと言って、どうしてこうまで変わってしまったのか。
考えてみればおかしい。あれだけ神を信じてそのために生きていたのに、神が自分
の先祖のつくりものだった事に対しては何も思わないのだろうか。
 次々と浮かび出した疑問。ヤージュの視線はそれらをすべてのせてまっすぐにア
ルヴィナを捕らえた。銀髪の復讐鬼はこれを一笑に付そうとして、できなかった。
憎むべきはずの少年の言葉に、揺れ動く何かがあった。黙したままアルヴィナも見
つめ返す。何かが狂いかけていた。少女の中で何かがせめぎあっていた。
(この人は何を申しているんですの? 今の私が私ですのよ。私がやりたくて世界
を壊すのですわ)
(それなら以前の私はなんでしたの。何を考えていました? 今とは違う私でした
の?)
 目をそらしたのはアルヴィナだった。揺れる思いを押さえ込もうと口を開く。
「……私は、世界を『混沌』に還さなくてはならないのですわ……。そのためにこ
こにいるんですもの……!」
「それが運命だ、とでも言うのか? オレが聞きたいのはそんな事じゃねぇんだよ。
そんなのはただの言い訳だろ。おまえが本心からそれを願っているのかって聞いて
るんだよ」
 静かな口調で指摘する。わけも解らずアルヴィナはカッとして光球を放った。
「静かになさい! 共に天則を守ると言いながら私を見捨てたのは誰ですの!?」
 先刻までの態度とは裏腹に、アルヴィナは焦っていた。自棄になったように攻撃
を仕掛ける。だがそれはほとんどヤージュに当たらない。
 少し離れて様子を見ていたリジェだったが、ふとおかしな事に気付いた。伝えよ
うかと迷ったが、時を経ずしてヤージュも気付いたらしかった。光球をかわしなが
らそれを口にする。
「見捨てたかどうかは知らんが、少なくともオレ達はやってないぜ。第一、なんで
さっきから『私』なんだ? 『混沌』にはまったのはおまえじゃないだろ」
「何を言っ……! …………え……?」
 初めて気付いたかのようにアルヴィナは口元を押さえた。
(ヴァストル=シーンと同調している? 記憶の混乱……アルヴィナは過去を見た
んじゃなくて体験してきたって事? それで彼の意識がアルヴィナの中に入ってい
るのか)
 リジェは対峙する二人を見つめながら考えこんだ。今、アルヴィナの中にヴァス
トル=シーンの意識が入り込んでいる。ならばどこまでがアルヴィナ個人の意思な
のだろう。アルヴィナを今の迷いから救い出せば、かの男も救えるのだろうか。永
い時を生きた二人の願い。できることなら叶えてやりたいと思った。
 アルヴィナは頭を振ってからヤージュを睨みつけた。
「何にせよ、私にとって貴方達は邪魔なのです!」
「だから、それがおまえ自身の考えなのかってさっきから訊いてるだろ! 答えろ
よ!」
「っ。そうですわ、私の意思ですわ! お兄様と共にこの世界を滅ぼしますのよ!」
 もうまるで勢いで叫んでいた。考えるのが怖い。言い切ってしまいたかった。言
葉にしてしまえばそれ以外のものにはならない。文句なんか言わせない。が、予想
していた反論はなかった。返ってきたのは、静かで慎重な宣言。
「そうか。だったらオレも本気でやる。……おまえは敵だ」
「ヤージュ……!」
 ラサが何か言おうとして叫んだ。いや、本人は叫んだつもりだったが、実際には
かすれた声しかでなかった。それでも口を開いたラサを、リジェが手で制した。
「ヤージュ、待って」
「何だよ。こいつは本気で世界を消すって言ってんだ。話し合いは終わりだ。誰も
傷つけたくないのは解る。けどもう、そんな甘いこと言える状況じゃねぇんだよ」
 あえて突き放すようにヤージュは言った。人を傷つけるのが辛くないと言えば嘘
になる。ましてやそれが短期間とはいえ共に旅をした人間ならば。だが、道は完全
に分かたれたのだ。目的のためには戦うしかない。
「待って。まだアルヴィナに聞きたいことがあるんだ」
 なんとかヤージュを押しとどめ、リジェは少女の空色の瞳を見つめた。
「何ですの……」
「さっき『私の意思』でやるんだとおっしゃいましたね」
 リジェの口調が出会ったばかりの頃に戻っていた。目の前にいるのが、友人のア
ルヴィナではないから。
「ええ、言いましてよ」
「じゃあ、その『私』というのはどなたの事ですか?」
「なっ……!?」
 想像だにしなかった質問を浴びせかけられて、アルヴィナは困惑した。
「何を馬鹿なことを。私以外に私が在るとでも申すのですか!?」
「現に貴女は先程ヴァストル=シーンの記憶を自分のものと考えた」
「!?」
 物静かな声がゆっくりとアルヴィナの思考に浸透していった。呆然としながら自
分の両手をじっと見つめる。
「私は、私でない……?」
「貴女は誰ですか?」
 重ねられたリジェの問いにアルヴィナの体がビクン! と震えた。
「私は……、私はアルヴィナ=シ−ン=アネサリアですわ。私は一人、他の誰でも
ありません!」
 そう言いながらも震えは止まらなかった。両手で己の肩を抱く。アルヴィナは必
死に自分に言い聞かせていた。
「私は自分の意思で、貴方達を、倒しますのよ」
「……駄目よ…………」
 支えてくれていたリジェの手を外し、ラサがおぼつかない足取りで近寄ってきた。
血のついた顔に慈母の微笑みをたたえて、両手を広げる。
「素敵な響きだって言ったわよね。友達、欲しかったんでしょう? ……まだ大丈
夫だから、まだ間に合うから、戻っておいでよ。ね、アルヴィナ」
 一人は寂しい。周りにどれだけ人がいても、笑い合い、話し合えるたった一人に
はかなわない。なくさないでほしい、解りあえる人を。ここでラサ達に手をかけて
しまったら、彼女は、きっとずっと独りぼっちだ。
 アルヴィナは優しくかけられた言葉を聞くまいと耳をふさいだ。小さな子供のよ
うに首を激しく横に振る。
「いりませんわ、友達なんて! どうせすべては『混沌』の中に還るんですもの…
…!」
 それなのに、どうして? 瞳から溢れる雫は何故?
(嫌、やめてっ。私はひとつですわ!)
 体が引き裂かれそうだった。バラバラになりそうな心を、アルヴィナは必死につ
なぎとめようとする。さもなくば生きていけない。『混沌』を復活させるため以外
の目的で生きることは許されない。なのに違う目的を持とうとする自分がいた。
「お兄様……助けてください。私、壊れてしまいそう……」
 知らず知らずアルヴィナは兄を呼んだ。もはや周囲の声は耳に入らない。狂って
しまった歯車を前にして、どうにかして取り繕おうとする自分と、歯車を壊してし
まおうとする自分がいた。
「助けて……どうしたらよろしいんですの、お兄様。……お兄様!」

「お兄様!」
 砂の城が風に崩されるが如く、荒野が消えた。白い壁に囲まれた部屋が現れる。
「戻った……?」
 リジェは辺りを見回した。宮殿の中には違いないが、どうやら別の部屋のようだ。
広々としているわりには窓が小さいので薄暗かった。
「お兄様!」
 現状把握に努めている三人など完全に無視して、アルヴィナは正面に向かって走
り出した。リジェ達もつられて振り返る。そこは祭壇のようになっていて、一面に
白呪文字が記されていた。祭壇の前にカルマンが立っている。
「アルヴィナ……?」
 微かに目を見開きながらも、彼は駆け寄ってくる妹を両手で抱きとめた。アルヴ
ィナは体を震わせながら、兄の腕にすがりついた。
「お兄様、助けてください……。私はひとつでなくてはなりませんのに……バラバ
ラになってしまいそう……」
「しっかりしろ! 何を迷う、素直に運命を受け入れよ!」
「それで自分自身の意思を犠牲にしろっていうのか? ふざけんなよ」
 強く妹の肩を抱いたカルマンの動きが、一瞬止まった。忌々しそうに声の主に視
線を注ぐ。ぎりりと眉がつりあがった。
「何も知らぬくせに勝手なことを言うな! これより他に我らが生きる道はないの
だ!」
「それで生きてるって言えるのかよ」
「なんだと……!?」
「自分を抑圧して、過去の人間に囚われて、それであんた自身が生きてるって言え
るのか?」
 辛辣な言葉を放ち、ヤージュは冷ややかな視線を投げかけた。わずかな間、二人
は睨み合うがカルマンは再びアルヴィナに語りかけた。
「さあ、迷うな。決めてしまうのだ。そうすれば楽になる」
「自分では考えなくていいもんな」
「黙れ!」
 カルマンが怒鳴ったのと、アルヴィナが兄の腕を握りしめたのはほぼ同時だった。
「お兄様は……楽になるために、運命に従うのですか……?」
「アルヴィナッ!」
 その声にこもっていたのは怒りではなく、憂いと焦りだった。垣間見えた表情に
リジェはギクリとする。彼は何を心配しているのだ? 何が起こるというのだ?
「……申し訳ございません。私……、もう解らなくなってしまいましたわ。本当の
私がどこにいるのか。何を望んでいるのか」
「…………アルヴィナ……おまえは……」
 辛そうに唇を噛むカルマンに、ラサの声がかぶった。
「どうしたいのかなんて考えれば解るはずよ。貴女は貴女よ! アルヴィナ!!」
アルヴィナは、急に目の前がひらけたように感じた。心に浮かび上がるのは、歓
喜だろうか。自分を呼ぶ声があった。他の何者でもない、アルヴィナを呼ぶ声が。
音も立てずに額の輪に小さな亀裂が走る。震えが止まった。
「お兄様……私は、友達が欲しかったのですわ」
瞬間、銀の輪が青い貴石もろとも砕け散った。空色の瞳に優しさが宿る。いつも
のアルヴィナだ。一緒に旅していたときのアルヴィナだ。ラサが疲れも痛みも忘れ
て、顔を輝かせた。リジェも微笑みを浮かべる。「手間のかかる奴だな」とヤージ
ュが呟いた。
「初めてお兄様以外の方に呼び捨てで名前を呼ばれました。他にもたくさんの初め
てがありました。…………嬉しかったです。復讐よりも、私は……」
「そうか」
カルマンは肩を抱いていた力を抜いた。
「おまえは意志の強い子だ。やはり真実を知ってもなお、結論は変わらなかったか」
「はい……。お別れですね、お兄様」
「結局、私はおまえに何もしてやれなかったな」
アルヴィナは無言で首を横に振った。兄の瞳を見つめて淡い笑みを浮かべる。砕
けた銀が放つ光に消されてしまいそうな笑みだった。
「……私に、お兄様を運命から解放できる力があれば、よろしかったのに……」
カクン、とアルヴィナの体から力が抜けた。
「………………え?」
突然の出来事に、ラサは笑顔のまま硬直した。頭の中が真っ白になる。見つめる
先で、青年の手から離れた少女の肉体が無機質な音を立てて冷たい床の上に倒れた。
心臓の音が聞こえた。他には何も聞こえない。すぐ側に立つ少年も、その黒い瞳
を見開いて静止している。何が起こったのか、理解できない。
「言ったではないか、精霊に守られたる子等よ」
麻痺しかけた頭を呼び起こしたのはカルマンの声だった。口の端に微かな笑みを
浮かべているが、その表情の奥にあるものは読み取れない。
「おまえ達と世界への復讐をする以外に、我等に生きる道はないと」
まさにそれは文字どおりの意味だったのだ。それでは彼等の生とはなんなのだ。
あまりにもやりきれない。リジェは涙しそうになった。
『おまえの知らない真実などいくらでもあるという事さ』
いつか、ラーフィスの語った言葉が蘇った。
「だからって……それで死ぬなんて、無茶苦茶だよ……」
「死などではない。ヴァストル=シーンが『混沌』に捕らわれながらも人間として
世界に戻れたのは何故だと思う。偶然なわけがなかろう。いつか世界を『混沌』に
還すと約定を交わしたからだ。それを条件に彼は人間の体で再び世界に姿を現した
のだ」
リジェの頭の冷静な部分が反応した。
「まさか、『混沌』に意思があったとでも?」
「おかしくはあるまい。あそこにはすべての可能性があるのだから。もっともそれ
が『混沌』全体を包括するほどの意思だったかというと疑問だがな。……そして我
等は代々『混沌』を抱えた不安定な体を持って生まれることとなった。古の契約に
背けば壊れてしまう体を持ってな」
それでは操り人形ではないか。生きていないも同然だ。ヤージュなら叫ぶだろう。
だが、消えてしまうのは誰だってやっぱり怖かった。アネサリア達はそうやって命
をつなげていったのだろう。
けれど、アルヴィナは違った。怖かったはずだ。それでも最後には自分を見つけ
た。自分の意志を貫こうとした。……だから、事切れた。
「…………」
ヤージュはうつむいて、強く唇を噛んでいる。側に壁があれば全力で殴りかかり
そうな気配を漂わせていた。許せなかった。何を? ……知らない。とにかく許せ
なかった。
「見ているがいい。この体もじきに崩れ、消えてしまう」
言い放ったカルマンが、倒れた少女の体を一瞥した時だった。全員が強く『風』
を感じた。小さな窓しかない、四方を壁に囲まれた部屋の中で、激しい風が渦巻い
ていた。

(ここは……?)
アルヴィナは光に満ちた空間の中に浮いている自分を認識した。『混沌』に飲ま
れたかとも思ったが、それにしては空気が清々しい。疲弊した心を癒すような、優
しい気配。眠りに落ちる寸前のような安らかさがあった。
しかし突然、目の覚めるような鋭さで心の中に声が響いた。
『強き心を持つ少女よ。其の声は我が元に至れり。我が声は其に至れるや?』
(聞こえますわ。どなたですの……?)
『なれば我は其に力を貸す者。我が力を望むか?』
(私はお兄様を『混沌』の呪縛から解放して差し上げたいのです)
『我が力のみにては適わぬ。されど手を貸すことはできよう。我が力を望むか?』
私がお兄様を助けられる? その力が手に入る? 欲しい。大切なたった一人の
兄を自由にしてやりたかった。……でも、自分はすでに生きていないはずではなか
ったか。
『其はまだ地界に存在せり』
(そんなはずありませんわ。私の体は……)
『其は二つの血を受け継ぐ者。一つは其がすでに知るもの。今一つによりて其の肉
体はとどめられん。望むなら再び魂は肉体に還らん』
(今一つの血……?)
それが何を指すのか、今は解らない。けれど望みをかなえる事ができるというな
ら。兄を解放し、共に自由に生きられるのなら。
(貴方のお力を……お貸しいただけますか?)
『良かろう、我が声を聞きし少女よ。さあ、体に戻るが良い。我は天則を守護する者なり』
優しくも強い風が吹き、そして少女の精神は命あるものの世界へ帰っていった。

風はおさまるどころかますます強くなっていた。髪や衣服が音を立てて舞い上が
る。それでも皆、一点を見つめていた。風の中心、アルヴィナの体が横たわってい
るところを。
「何が起こってるんだよ……」
ヤージュの口から漏れた言葉が、その場にいる全員の気持ちを代弁していた。カ
ルマンさえも状況は掴めていない。その時、一陣の風がリジェの元に伸びてきた。
ふわりと体をかすめる。
「……!」
服の内側にあったはずの感触が消えた。リジェは通り過ぎた風を確かめるように
体をひねる。そこには透明な羽が淡い光を帯びてクルクルと回っていた。
「……『空の翼』……!」
「え? じゃあ、もしかして……」
ラサが戸惑い気味に驚きの声を上げた。それが合図だったかのように『翼』が消
える。
「!?」
予感がして、再びアルヴィナに視線を移した。誰もが言葉を失う。
渦巻く風の中で、少女の体が宙に浮いた。風は少女を守るように吹き寄せている。
その背に、一瞬大きく美しい翼が見えた気がした。
(やっぱりそうだ。……アルヴィナが……)
見守る中、風が次第に弱まり、少女の体が降りてくる。髪をなびかせ、音も立て
ず、アルヴィナの足は地面に接した。ゆっくりと瞼が開かれる。
(アルヴィナが空界の精霊の声を聞く者だったんだ!)
思いも寄らぬ展開。だがそれはリジェ達にとって喜ばしいものであった。探して
いた人物が見つかったからでは勿論ない。沈みかけた心に希望がさす。
地上に舞い戻った少女は、両手を前に組んで微笑んだ。
「お兄様を自由にしてさしあげたくて、戻ってきてしまいましたわ」
もはやその顔に冷たさはない。
「そうか……」
ようやく言葉を取り戻したカルマンが小さく言った。瞳が優しくなった、気がし
た。本当に気のせいだったかもしれない。直後に表情と口調が一変した。
「ではおまえも私の敵になるのだな」
「そんなっ」
「精霊の力を借りたとはそういう事だ」
今まで一度も向けられたことのない拒絶。それは高く堅い壁のように思えて、ア
ルヴィナは愕然とした。これも『混沌』に捕らわれているせいなのだろうか。
「アルヴィナ!」
背後からかけられる声があった。振り返ろうか否か迷っていると、正面から冷た
く言い放たれた。「行け」と。
「もはやおまえは妹ではない。奴等の仲間だ。死ぬのなら一緒が良かろう」
「お兄さ……!」
すがりついた腕はとりつくしまもなく乱暴に払われた。勢いで後ろに倒れる。
「ちょっ、なんてことするのよ!」
慌ててラサが駆け寄った。自分の怪我などすっかり忘れた様子だ。倒れている友
を助け起こそうとしながら、カルマンに非難の声を上げる。しかし彼は眉一つ動か
さなかった。
「もう気安く兄などと呼ぶな」
「そんな……」
(…………どうして?)
リジェはわずかに目を細めた。その澄んだ瞳には、ラサの気遣いに応えるのも忘
れて兄を見上げるアルヴィナと、鉄面皮のカルマンが映っている。そう、カルマン
は先程までとは別人のように冷徹になっている。なぜそんなに急に変わってしまっ
たのだろう。アルヴィナが精霊の声を聞く者だったから? 憎むべき相手だから?
それはつまり……。
「この人の中にも、ヴァストル=シーンがいる」
きっぱりと呟いた。聞き取ったヤージュがはっとしてリジェを見る。アルヴィナ
と同じように本来のカルマン=シーンはもっと別のところにあるのかもしれない。
「アルヴィナ、下がってて」
「! 何をするつもりですの?」
たとえ拒絶されても、アルヴィナはカルマンに敵意を抱けない。もし戦いを始め
るつもりだというなら、ここを退くわけにはいかない。力を手にした理由は唯一つ、
兄を自由にしてやりたかったからだ。本来が天則を守るものだろうが、関係ない。
精霊は望みに手を貸してくれると言ったのだ。
強固な意思を秘めた瞳を見つめ返し、リジェは力強く微笑んだ。見る者を安心さ
せる笑み。
「天界の力を借りれば、あの人を助けられるかもしれない」
「……でき、ますの……?」
「やってみないと解らないけど、アルヴィナがここにこうしていられるのなら、多
分……」
信じていいのかと瞳で尋ねながらも、顔は希望に輝き出していた。彼は嘘をつく
ような人間ではない。きっと、大丈夫だ。アルヴィナは小さくうなずいた。
「フ……では四人揃ったところで仲良く消えてもらおうか!」
一条の雷が槍となってカルマンの右手に現れた。腕を振ると槍は四人目がけて飛
んで来る。ラサが動くが、体で庇うように動いたリジェがそれをおしどとめる。水
では雷を通してしまう。素早くヤージュが石の床に膝をつき、手をかざした。
「砕けることなき堅固な者よ、我等を守る盾とならんことを!」
呼び出された精霊が、わずかに世界を歪める。四人を囲むようにして床に亀裂が
走り、石がせり上がる。そこへ雷撃が命中した。激しい音を立てて雷は消える。
「リジェ! オレが時間稼ぐから早く精霊を!」
「うん!」
勢いよくうなずいて、リジェは『天の鏡』を取り出した。胸が高鳴る。大丈夫だ。
精霊は応えてくれる。自分に言い聞かせ、天に向けて腕を伸ばした。その先から金
色の輝きが零れだす。
「くっ、光の精霊だと? ……させるかっ!」
「そーゆーことはオレを倒してから言うんだな」
リジェに向かった雷は石の壁にぶつかって消えた。その間にも光は強くなる。

宮殿の外に佇む二つの影は、金の瞳であふれる光を見つめていた。もはや、言葉
もなく。