光のきざはし - 12章 XREA.COM

それは、アネサルスに向けて出発してから二日後のことだった。リジェは総毛立
つような悪寒を覚えて立ち止まった。気持ち悪い。ラーフィス達に会った時と似た
感じだ。しかし、どこか違う。あの二人が来た訳ではなさそうだ。
「っと、どうかしたの?」
すぐ後ろを歩いていたため、危うくぶつかりそうになりながらラサは尋ねた。そ
の顔にふっと影が落ちた。辺り一帯が急に薄暗くなる。今日は雲ひとつないいい天
気だったはずなのに。四人は一様に空を見上げた。
「なっ……?」
「あれは!?」
その瞬間、誰もが目を見開き、言葉を失った。有り得ない光景を視界に捕らえ、
リジェはこみ上げてくる異物感に胸を押さえる。
見上げた空では、黒い影が獲物を捕らえた猛獣の勢いで太陽を飲み込もうとして
いた。眼を灼かんばかりの輝きが、見る間に影に喰われていく。それに合わせて世
界も影に包まれていく。このままでは完全に太陽は闇に飲まれてしまう。
(『天の鏡』はまだ割れたまま……)
しかしこのまま放ってはおけない。きっとこれは、ラーフィスの言っていた『混
沌』の訪れる前兆なのだ。体を駆け巡る不快感がそれを確信させる。……ならば考
える余地はないはずだ。
「ごめん、ヤージュ! 無茶する!」
「なっ。おい、リジェ!?」
前に怒られたのでとりあえず前置きだけしてから、リジェは澄んだ瞳を改めて空
に向けた。
「精霊達の面(おもて)は、輝きて昇りつ、昼と夜の眼(まなこ)、炎の眼は。太
陽は天地・空界を満たしぬ。動くもの、動かざるものの生気として。太陽は輝ける
暁の光の後に従う。敬虔なる人々が、幸福を求めて、幸福をもたらす汝のため、天
の車に軛(くびき)をつくるとき……」
闇色に染まり出した空に向かって、リジェは一気に詩を紡ぎ始めた。彼にはまだ、
光の精霊に応えてもらえる資格はない。証しである『鏡』はまだ完全ではない。そ
れでも、語りかけることならできるはずだ。言葉によって、精霊を力づけることは
できる。
体中を駆け巡る不快感と悪寒を、意思で押さえ付けてリジェは天を仰いでいた。
そこへ、今となっては聞き慣れた音が伴奏に入った。しゃらしゃらと鈴の音もする。
「音楽って言うのはね、一人より皆でやるものよ」
踊りに使う、鈴付きの足輪で拍子を取りながら、ラサが片目をつむってみせた。
旋律は言葉に呪力を、精霊に力を与える。リジェの負担を減らしてやれるはずだ。
(ありがとう)
目だけでリジェは感謝した。言葉にするほどの余裕はない。
「ああっ、たく。見てらんねーぜ」
前髪をわしゃわしゃとかきむしりながら、ヤージュは一歩前に出た。彼は彼なり
に手伝える方法がある。
「常に目覚めし人間の守護者、勝れたる意力を持つ炎の精霊は生まれいでたり、さ
らに新たなる安寧のために。清浄なるものは天を擦る高き炎もて、我らのために明
るく輝き渡る!」
ただ一人、なす術もなくうろたえるアルヴィナの眼前に、炎が生まれた。短い悲
鳴を上げるが、今は誰もそれを気に留める者はいない。ヤージュが炎に向かって叫
ぶ。
「行け、天界の炎たれ! 光の助けとなり、天則を維持せんと努めよっ」
炎が、輝きを増した。
「ラサ! 天への扉を開けっ!」
「扉って、どうやっ……。……解った、やる!」
竪琴を鳴らしながらラサはうなずいた。水の精霊は世界の間を巡るものだと聞い
た。天・空・地、三つの世界を行き来するものだから、世界の扉を開くものでもあ
る。きっと、だから水の精霊からの贈物は『鍵』だったのだ。
そして、初めて精霊を呼んだ時『鍵』はいつの間にか消えていた。今はラサ自身
が『鍵』だった。ラサが扉を開く者だった。
(……だから、解る)
ラサは頭に浮かんだ旋律をサウンで奏でた。それは今まで聞いたことのないはず
なのに、なぜか懐かしい曲だった。そして曲と同時にヤージュの呼び出した炎の精
霊は地上から消えた。闇を打ち消すべく、太陽の下へ向かったのだ。
「この太陽は、すべての力と共に昇りつ、怨敵を我に屈服せしめつつ。我、怨敵に
屈服するなからんことを……」
ほぼ時を同じくして、リジェの詠唱が一巡した。しかし、太陽に喰らいついた影
は消えていない。恨めしそうに天を見つめ、リジェはもう一度口を開いた。
「精霊達の面は、輝きて昇りつ……、昼と夜の眼……」
「リジェ! 影は止まったわ、無茶しないで!!」
良くとおる声がして、リジェは腕を掴まれた。途端に、かくんと膝が折れる。緊
張と不快感がない混ぜになって、短時間のうちにすっかり疲労してしまったのだ。
地面に座り込んだまま、リジェは声の主を見やった。
「ほら、良く見てよ。少しだけどまだ太陽は見えてるわ。これ以上やったら、リジ
ェまた倒れちゃうんじゃない?」
「ん……。そうだね、ごめん」
「謝ることじゃないけどさ」
ラサはため息をついてリジェを見下ろした。その向こうでヤージュがこくこくと
うなずいている。ラサが止めてくれて一安心、といったところだろうか。もちろん
この異常な空の様子をこのままにしておいていいとは思わないが。
リジェは視線を空に移した。影は消えもしなかったが、それ以上太陽を飲み込む
こともなかった。太陽はかろうじて影に侵されなかった部分から光を地上に注いで
いる。今はこれでもよしとしておかねばならないのだろうか。自分に力がないばか
りに……。
「真面目に考え過ぎなんだよ、おまえは」
思考が沈みかけたところでヤージュに軽く頭を叩かれた。慌てて顔を上げると、
すぐそこに幼馴染みの呆れ顔があった。
「おまえは、良く頑張ってる。普通はできないことをやってのけてるんだから、落
ち込んでるなよ。……それで、大丈夫なのか?」
「あ、うん。だいじょ……じゃなくて、えーと、その。……もう少し立てないかも」
以前かなり怒られたことはさすがに覚えていた。「無茶しなくていいときまで無
茶するな」……。さっきの無茶は黙ってくれてても、今「大丈夫」と言ってたら口
きいてもらえなくなったかもしれない。危ない危ない。
「あのぉ……」
おずおずとアルヴィナが進み出た。
「よろしければ、私の力で癒してさしあげましょうか……?」
何がおこったのかさっぱり把握できなかったが、とりあえず自分にできそうなこ
とがあったので申し出たらしい。このままでは存在を忘れ去られそうに思ったのか
もしれない。
しかしリジェは申し訳なさそうに首を横に振った。
「気持ちはありがたいけど……怪我とか病気とかじゃないから。少し休めば大丈夫
だよ」
「そう、ですか」
疲労は癒すものではない。だから普通に回復を待つしかないのだ。アルヴィナは
しゅんとしてうなずいた。最高司祭でありながら、世界的な異変に対して、何も解
らず、何もできなかった。情なくて悔しくて、微かに下唇を噛んだ。
しかし、うつむいていても事態は好転しない。アルヴィナは気を取り直して顔を
上げた。まずは何が起きたのか知る事が先決だ。
「教えてください。皆さんは何を知っているのですか? 今、何をしたのですか?
……私は知らなければならないのです。皆さんが何のために生き、行動するのかを」
「………………話してもいいけど、話したら、おまえそれ信じるか?」
疑うような目付きで応えたのはヤージュだった。
「信じるかどうかは、聞いてみなくては解りませんわ」
「そりゃそーだ。解った、話してやるよ。リジェが回復するまでの間、たっぷりと
な」
「信じる」と即答されるよりよっぽど素直な返事だ。ヤージュは唇の端を上げた。
「ま、もっともあの黒い影がどうやって、どこからわいてきたのかはオレもよくわ
かんねー。少なくとも天則に逆らい、『秩序』を破壊し、世界を『混沌』に還そう
としてる奴がいるってことだけは確かだな」
(……体が、重い……)
体に力が入らないせいだろうか。ひどく眠い。軽い口調で語る声を遠くに聞きな
がら、リジェは静かにまぶたを閉じた。

リジェは夢を見ていた。ちょうどヤージュが話すのを聞いていたからだろうか。
世界の誕生と精霊についての夢だった。『混沌』から『秩序』が、世界が生まれる
様を誰かが歌っている。

   そのとき無もなかりき、有もなかりき。空界もなかりき、その上の天も
  なかりき。何ものか発動せし、何処に、誰の庇護の下に。深くして測るべ
  からざる水は存在せりや。
  その時、死もなかりき、不死もなかりき。夜と昼との標識もなかりき。
  かの唯一物は、自力により風なく呼吸せり。これより他に何ものも存在せ
  ざりき。
  太初において、暗黒は暗黒に覆われたりき。この一切は標識なき水波な
  りき。空虚に覆われ発現しつつあるもの、かの唯一物は、熱の力により出
  生せり。

(唯一物……『混沌』の中に生まれた太初の意思)
リジェはただただ目の前の空間を見つめていた。そこには全てが在って、全てが
ない。或いはそれは可能性という名の卵だったのか。世界も、生命も、全てここか
ら始まるのだ。

   最初に意欲はかの唯一物に現ぜり。こは意の第一の種子なりき。詩人ら
  は熟慮して心に求め、有の親縁を無に発見せり。
  彼等の縄尺は横に張られたり。下方はありしや、上方はありしや。能動
  ありき、受動ありき。自存力は下に、許容力は上に。
   誰か正しく知る者ぞ、誰かここに宣言しうる者ぞ。この創造は何処より
  生じ、何処より来たれる。生命はこの創造より後なり。しからば誰か創造
  の何処より起こりしかを知る者ぞ。
   この創造は何処より起こりしや。そは誰によりて実行せられたりや、あ
  るいはまたしからざりしや、  最高天にありてこの世界を監視する者の
  み実にこれを知る。あるいは彼もまた知らず。

(そうだ、誰も世界がどうやってできたかなんて知るわけがない。でも世界があっ
て、そこに精霊と人間が生まれたのは確かなんだ)
リジェはいつの間にか地面に下り立っていた。見渡せば、世界はまだ穴だらけだ。
不完全な世界はあちこちに『混沌』を抱え込んでいる。人間がその穴を見つけては、
呼び出された精霊が『混沌』の中の要素を性質ごとに取り出し、秩序だてていった。
改めてリジェはこれが夢であることを認識した。現実なら、こんなに『混沌』を
近くにして平気なはずがない。人間もまた『秩序』によって造られたものだから、
この世界の中でしか生きられない。リジェはその性質が特に強いから、『混沌』が
近いとそれだけで体調が狂うのだ。
体が軽いことを微かに喜びながら、リジェは人のいるほうへ一歩踏み出した。途
端にガラリと景色が変わった。しかし夢の中のリジェは違和感なく歩く。
今いるのは大きな屋敷のようだった。立ち止まって後ろ手に扉を閉める。見えて
いるのは一部屋だけなのだが、これは屋敷だと頭の中には刷り込まれている。目の
前には小さな子供からリジェと同じくらいの少年まで、幾人もの子供がいた。部屋
の外からは金属の打ち合う音や悲鳴が聞こえてくる。物々しい雰囲気が漂っていた。
「皆、時間がないわ。早く逃げるのよ!」
「いいか、おまえ達は生き延びろ。いつか精霊と再び助け合える日まで、決して…
…!」
女の声に続いて、子供達に向けて声を発したのはリジェだった。
「でも、兄さんたちは……!?」
「いいから早く逃げろ!」
(……あれ?)
叫びながら、リジェは少なからず驚いた。目の前に一歩進み出た少年は、自分に
そっくりな顔をしていた。夢ならこんな事もあるかとどこかで思いつつ、何か不思
議な感じがする。
夢の外側にある意識がいろいろ考えているうちに、子供達は裏口から逃げていっ
た。自分にそっくりな少年も、一人の少女に引っ張られて、何度も振り返りながら
去っていく。しかし彼を連れていった少女もまた、辛そうな表情だった。
「………………」
そして部屋から、子供達の姿が消えた。しばしの沈黙の後、夢の中のリジェは意
を決したように隣に声をかけた。
「さぁ、行こうか」
「ええ」
(…………!!)
応えながら振り向いた女の顔を見て、リジェは今度こそ本気で驚いた。瞳も、肌
の色も違うため、印象こそ異なるが、この顔は紛れもなく……!