光のきざはし - 11章 XREA.COM

「アルヴィナー! そろそろ行くわよー」
 アルヴィナは沐浴をしていたため、ひとり身支度に手間取っていた。待ちくたび
れたラサが顔をのぞかせる。
「終わった?」
「はい、すみません。すぐ行きますわ」
 アルヴィナが耳飾りをつけながら振り返った。その瞬間、青い光が額で揺れた。
興味を覚えたラサが近付いてくる。
 アルヴィナの額には、銀の環がはめられていた。中央に涙形の宝石が輝いている。
「綺麗ねぇー。でもアルヴィナ、今までこんなのつけてたっけ?」
「先程聖河の中で見つけましたの。興味深いものでしたので、持ってきてしまいま
したわ」
「へぇ、いい物拾ったわね」
 にっこりとうなずきながらアルヴィナはブルカールを被り、ヴェールを下ろした。
ようやく準備完了である。しかしそれを見て、ラサは頬を膨らませて抗議した。
「せっかく綺麗なのつけてるのに、隠したら意味ないじゃない」
「ええ、でも……これはこれでいいんですの」
 ヴェールの上からそっと額を押さえて答える。アルヴィナはこの頭環に装身具と
して興味を覚えたわけではない。それだけの理由なら、もっと凝ったものや高価な
ものをいくらでも持っていた。わざわざ拾ったものを身に着けようとは思わない。
 冷たい水の中からきらめく銀の環を拾いあげた時、アルヴィナは気付いたのだ。
そこに彫られた紋様に。それは、ここにいる人間ではアルヴィナにしか読めない文
字。白呪文字。刻まれていた言葉は『記憶の扉を開け』。
(一体、何を意味するのでしょうか……?)
 それを確かめようと思ったのだ。だが、白呪について知識があり、興味があるの
はアルヴィナだけだ。それが解っていたから彼女は黙っていた。
「まぁ、私のものじゃないからとやかく言う筋合いないか」
 ふう、とラサが息を吐いた。それからぐいとアルヴィナの腕を引っ張る。
「早く行こう。後の二人も待ってるし」
「そうですわね」
 今日はついにヴァヒマに登るのだ。今更ながら思い出して、二人はリジェ達の待
つ場所へ駆けだした。とくにラサは張り切ってアルヴィナを引っ張っていった。
「遅い!」
「うん。だから早く行きましょ」
 到着早々、ヤージュの文句が飛んだが、機嫌がいいのか何か理由があるのか、ラ
サはそれをさらりと流した。拍子抜けしてリジェが目を点にした。てっきりまた言
い合いになると思っていたのに。惚けていると、隣まできたラサが微笑んだ。
「どうかした?」
「え、あ、何でもない。行こうか」
「うん」
 別に深く考えるほどの事でもない。リジェは自分自身に小さく肩をすくめてから
先頭を切って歩き出した。目的の場所が他の人には解らないので、彼が先頭に立た
ないと進みようがないのだ。とはいえ、リジェにもまだはっきりと場所を特定でき
てはいない。感覚まかせなので仕方ない。それでも必ず目的の『空の翼』には辿り
着けるのだ。それがリジェの力だった。
「きっと上のほうだから、しばらくはこのまま河沿いに登っていけばいいか。ラサ
もその方がいいよね」
「うん、ありがとっ」
 できるだけ聖河の源に近い場所まで行きたいとラサは言った。やることがあるの
だと。ならば可能な限り聖河を遡ろう。なんなら少しくらい遠回りしても構わない。
急がないわけではないけれど、ラサは初めからここへくることを目的としていたの
だから、それを果たしてもらいたい。
(それにしても、やりたいことって何だろう?)
 いつものように話に花を咲かせているラサを見つめながら、リジェは考えた。し
かし、考えたところでやっぱり答えは解らない。
 一行は特に変わったこともなく、ガムナワティの流れを左手に見ながら順調に山
道を登っていた。勾配が次第に急になり、樹木が減ってくる。いつの間にか足下か
らは道らしい道も消えていた。風が容赦なく四人に吹きつける。
「さすが山の上……寒いわね」
「上ったって頂上まで半分もいってないと思うぞ?」
「頂上まで行った人は世界ができてからこのかたいないけどねー」
 あははーと呑気な笑い声を上げながらリジェは二人のやりとりに茶々を入れた。
そうでもしてないと寒さに音を上げてしまいそうだった。やはりもう冬になろうと
いう時期に来る場所ではなかったらしい。そんなこといっても始まらないが。
「もし目的地が頂上近くだったらどうする?」
「言うな。おまえが言うと冗談に聞こえない」
「冗談だったの? ありそうな話じゃない」
「無茶言うなよ。そうなったら絶対にオレ達じゃ辿り着けないって」
「辿り着けたら一躍有名人だろうね」
 今までどれだけの人間が頂上を目指して帰ってこなかったことか。子供の体力で
はどうにもならないことだけは確かだ。
「ところでさっきから黙ってるけど、大丈夫?」
 最後尾に向かってリジェが声をかけた。ラサの干渉のかいあって、アルヴィナに
対してもすっかり普通の言葉遣いである。
 アルヴィナは弾かれたように顔をリジェに向けた。相変わらず薄い布に隠れてい
るので表情は見えないけど。少なくとも体調が悪くなったようには見えなかった。
「あら、すみません。何か用でしょうか? 考えごとをしていたもので……」
「それならいいんだ。ごめんね、邪魔して」
 ちょっと気になっただけだから。小さく笑ってリジェはまた前を向いた。その耳
に、激しい水音が聞こえた。思わず左手に流れる聖河を見るが、音はもっと遠くか
ら聞こえていた。不思議に思って、ラサと顔を見合わせる。
「何だろう……」
「とにかく行ってみましょ! もっと上流のほうよ」
 ラサがリジェを追い越して進み出した。勢いにつられてリジェも小走りに上を目
指す。本格的に走るには坂が急なので、早足で音のするほうへ急ぐ。
 樹木がまばらで見通しが良かったので水音の原因はすぐに解った。飛沫が顔にか
かるくらいに近づいて、視線を上に向けた。
「滝……?」
「ここをさらに遡るのはちょっと大変かしら?」
 口をとがらせながらラサはあきらめともとれる言葉を吐いた。不満そうにしなが
ら、悩んでいる。だが滝をさらに遡るとなると崖を越えなくてはいけない。それは
無理なように思われた。
「それじゃここまでか?」
 後ろからのんびり追いついてきたヤージュが状況を見て言った。その言葉にリジ
ェの声が被る。
「違う……、この上に川はない」
「え?」
「良く見て。滝なんだけど、普通の滝じゃないよ」
 リジェは水が落ち始める場所を指差した。崖のいちばん上ではない。崖の途中、
つまり地面の中から水はあふれていた。初めての光景にため息がもれる。
「地下水か…………」
 少しだけ目を丸くしてヤージュが呟いた。どういう事か良く解らず、リジェは目
で説明を求めた。意外かもしれないが、理屈的なことはリジェよりヤージュが得意
だった。リジェの知識は感覚に基づくものが多い。リジェは理性派ではあったが、
知性派というと実はヤージュの方なのだ。
「そうだな、雪や雨がしみこんで地下水になったんだろうってのはいいな? 問題
はどうして崖の途中から出てくるのかだ」
「うん」
 どうやら面倒くさがらずに教えてくれるらしいので、神妙な顔でうなずいておく。
「簡単に言えば地面の硬さが違ったんだな。あの水が出てるところの上と下では下
の方が硬い岩なんだろう。そうすると水はそれより下にはしみこまないって寸法さ。
だから崖の下に湧き出すんじゃなく、あんなところから流れ落ちてるわけだ」
「はぁー、なるほどねー」
「ヤージュ、すごい! 物知り!」
 思わず拍手が出る。ヤージュもまんざらではなさそうだ。
「それなら聖河ガムナワティの源はここって事でいいのね」
 弾んだ声でラサが叫んだ。ついに彼女にとっての目的地についたのだ。海の色を
した瞳が、きらきらと輝いている。今までにない、清々しい笑顔をしていた。その
顔に思わずみとれる。リジェの心臓がトクンと鳴った。その音が聞こえたかのよう
に、ラサが振り返る。
「リジェ、ヤージュ、それにアルヴィナも……ありがとう。皆のおかげでここに来
られたわ。本当にありがとう」
 心の底からの笑みに、リジェは頬を赤くした。何だかラサがいつもと違う。普段
は脳天気なまでの明るさに隠れて見えない、内側の部分を覗いた気がした。後ろで、
勝手が違ったのだろう、ヤージュがふいと横を向いた。
「あ、あの……私は後からついてきただけで何も……」
 自分の名前も出されたので、アルヴィナが戸惑って口を開いた。
「いいの! お礼を言いたい気分なのよ」
「そう、ですか……」
 それ以上に言うべき言葉が見つからないので、曖昧にうなずく。そんなアルヴィ
ナの態度はすでにラサの眼中にはない。これからやろうとすることで頭がいっぱい
だった。再び滝に視線を移し、ゆっくりと歩み寄る。
 三人が見守る中、ラサは滝壺のすぐ側に膝をついた。自分の荷物の中から小さな
袋を取り出す。その動作が、とても愛しそうだったので、つい声をかける。
「それは……?」
「リィハ」
 ラサは振り向くことなく答えた。
「前に話したっけ? 舞踊団で私を育てて、面倒見てくれたお姉さん。私に竪琴を
教えてくれた人。たくさんの歌を聞かせてくれた人。幸せになるって約束した人…
…」
 話しながら、ラサは紐を解いて袋の口を開けてみせた。中には白っぽい灰があっ
た。長い間持ち歩いているうちに、少し減ってしまったように感じる。しかし、ま
ぎれもなくこれはリィハだ。正確には、リィハだったもの。
「私、団長夫婦は嫌いだったけど、稽古はそうでもなかった。歌も踊りも好き。だ
けどそれはリィハがいたから言える事。リィハがいたから舞踊団は私の居場所であ
りえたの。そして、昔、私にはあそこしかなかった」
「…………」
「だけどリィハは違った。リィハは本当はずっと帰りたがっていた。でも逃げなか
った、私の側にいてくれた。リィハには帰る場所も、待ってる人もいたのに!」
 二人で語り合った日々を思い出して、ラサは目を閉じた。彼女はいつだって優し
かった。家族というなら、彼女こそそうだった。血のつながりなんて関係ない。だ
けどもし、ラサのその思いがリィハを引き止めていたとしたら? 彼女には帰る場
所があったのに。
「これは私の恩返しで、罪滅ぼしなの。リィハの帰る場所を、私は知らない。でも、
聖河なら世界中を巡ってる。ほんのひとかけらだけどリィハを帰るべき場所に送っ
てくれる。そう思ってここまで来たの」
 許してもらえるかどうか解らない。ただの自己満足かもしれない。それでも、待
つ人の元へリィハを連れていってあげたいという思いだけは本当だった。聖河の水
が、この灰を帰るべき場所に送り届けてくれますよう。後は祈るしかない。
「大丈夫だよ」
 ラサの背中に向けて、リジェが声をかけた。気安めでなく、心の底からそう思っ
た。
「この河は『生命の川』だもん、絶対に送り届けてくれるよ」
「……ありがとう」
 ようやくリジェの瞳を見て、ラサが微笑んだ。リジェも笑みを返す。優しく励ま
された気がした。大きくうなずいて、袋を持った手に力が入る。
「リィハ……今までありがとう。さよなら……!」
 細かな灰の粒子が、音も立てずに水の中に消えた。
「……………………」
 飛沫を上げて音を立て、水は絶え間なく流れゆく。ラサはしばらく水面を見つめ
ていたが、やがてすっと立ち上がった。
「おまたせ! これで私の用は終わり! さ、行きましょ」
 振り返ったラサの笑みはいつもどおりの明るい笑顔だった。
(いや、いつもと同じじゃない。もっと……)
 リジェはその笑顔に今までと違うものがあるように感じた。胸のつかえがとれて、
さっぱりしたというのでもない。決意、だろうか。ある意味、今のはラサにとって
過去との訣別だ。忘れることはなくても、ラサの中での過去に対する位置付けが変
わったのかもしれない。彼女の瞳は、今を見つめている。
「まだまだこれからだもんね、私達」
 ラサが自分に言い聞かせるように呟いた。笑って、リジェが答える。
「もちろんさ。僕達はまだ、道を選び始めたばかりだ。これからどうするかだよ」
「十代の男女の台詞じゃねぇ……」
 こめかみに手を当てて、ヤージュがぼそりとつっこんだ。

 その後、気持ちも新たに聖河を離れた一行はリジェを先頭にひたすら山を登って
いた。途中で何度か休憩を入れながら上を目指すうち、辺りが霧に包まれだした。
ひんやりした感覚が頬を撫で、視界が白に埋めつくされた。
「こりゃひでぇな。晴れるまで待つか?」
 足下が良く見えないほどの霧にヤージュが舌打ちする。こうも視界が悪い中を進
むのは危険かもしれない。それはリジェにも良く解っていた。しかし彼は首を横に
振った。
「駄目だよ、ヤージュ。多分この霧は待ってても晴れない。そんな気がする」
「ふむ。……これも一つの結界、か?」
 彼等の故郷を守っているように、人をこれ以上近寄らせないための。
「そうだと思う。かなり近づいているもの」
「なるほどね。それならこのまま行くしかないか」
「そういう事。皆ちゃんとついてきてね」
「はぁーい!」
 元気のいいラサの返事を聞くと、リジェは再び歩き出そうとして……足を止めた。
頭をかすめた不安を確かめようと口を開く。
「……点呼をとります」
「へ?」
「番号、一!」
「……? 二」
「三っ!」
 ………………。
「もう一回、番号! 一」
「二」
「三っ」
 ………………。
「アルヴィナがいない〜っ!?」
 不安がものの見事に現実になった。思わず頭を抱えて叫ぶ。
「うそぉ、いつの間に?」
「世話のかかるお姫様だな! ったく」
 こんな深い霧の中、一人で歩き回っていたらどうなるか解らない。山道は危険だ
し、変な所に迷い込んだら帰れなくなるかもしれない。
「どうしよう」
 三人は顔を見合わせた。探すといってもこの霧では難しい。かといって放ってお
くわけにもいくまい。一息おいて、ヤージュが眉をつりあげながら軽く手を上げた。
「いいよ、オレが探してくる。おまえら二人で『空の翼』を取ってこい。あいつが
いない方が都合いいしな」
「探すっても……」
 ラサが眉をひそめた。これ以上バラバラになるのは避けたほうがいいのではない
か。それに一人で探せるのか。
「多分、大地の精霊に聞けばなんとかなるだろ。空を飛んでどっか行ったんでなき
ゃな」
「解った。それならアルヴィナはヤージュに任せる。落ち合う場所は?」
 精霊の力を借りるなら大丈夫だろう。リジェは安心してうなずいた。
「そうだな……、こっちから適当に探して合流するから気にするな。会えなかった
ら昨日泊まった小屋にいてくれ」
「うん。それじゃ、よろしくね」
「ああ、そっちこそしっかりな。ラサ、リジェが無茶しないか見とけよ」
「まっかせといて」
 にっこり笑ってラサが手を振った。

「さて……と。お姫様はどこにいったんだろうかね」
 先へ進んだ二人を見送ってからヤージュはぐるりと辺りを見渡した。足を滑らせ
てどこかに落ちてたりしないといいが。
(ま、あいつなら怪我しても自分で治せるか)
 何と言ってもお偉い最高司祭様だからな。皮肉げに言ってから、馬鹿らしくなっ
て肩をすくめた。そんな事やってる場合ではない。目を閉じて、精神を集中する。
「命の根差す所、大地を司るものよ。……わりぃけどちょっと出てきてくれるか?」
 なんか、やる気のない呼び出し方である。いいのかそれで。
「この山の中に白い服着たお姫様がいるはずなんだ。どこにいるか教えてくれ」
 一瞬の間をおいて、ヤージュの頭の中に意識が流れ込んできた。言葉はないが、
その意識が方角を示す。そう遠くない場所を移動しているようだ。このままではど
んどん離れていく。
「ったく、何やってんだか」
 ため息交じりに呟くと、アルヴィナに追いつくべく駆け出した。もっとも、霧が
深いので思い切り走ることはできない。やってもいいが転ぶのが落ちだ。足下に注
意しながら先を急ぐ。それでもゆっくり進むアルヴィナに追いつくには充分だった。
 まもなく、霧に紛れてしまいそうな白い背中を視界に捕らえた。アルヴィナは気
付いた様子もなく歩き続けている。
「どこ行く気なんだよ、あいつは。お……」
 おい、と声をかけようとした時、アルヴィナが立ち止まった。しかし彼女は振り
返るでもなく前を見つめている。様子がおかしい。ヤージュは声をかけるのを止め
て静かに近づいた。すぐにもう一つの人影があるのに気付く。
 アルヴィナと向かい合うように影は立っていた。ヤージュが一歩進むごとにその
姿がはっきり見えてくる。
「…………!!」
「あら、貴方を呼んだ覚えはないのだけど。困ったわ、ずいぶん早いお迎えね」
 言葉とは裏腹の余裕の笑みを浮かべ、その女は立っていた。妖しげな金の瞳も、
聞いただけで震えるような冷たい声も覚えている。忘れようがなかった。
「……ケーティア…………!」
 背中に冷たいものが流れる。だが悟られてはいけない。ヤージュは奥歯を噛みし
めて目の前の女を睨みつけた。
「覚えていてくれたのね。それはありがたいこと」
「今日は一人なんだな」
「ああ、ラーフィス? 別件でちょっとね」
(別件……?)
 ヤージュの頭にちらりとリジェのことがよぎった。向こうにラーフィスが出てこ
られたら、かなり厄介だ。思い過ごしであればいいが、楽観視はできない。なんと
かして、早いとこ合流しよう。
「あの坊やに何かしようとは思ってないわよ。今日はね」
 焦るヤージュを嘲るかのようにケーティアが言った。
「用があったのはこちらの姫君だけだもの」
「……なんだと?」
 言われて初めて気がついた。先ほどからアルヴィナが微動だにしない。こんなに
近くで話しているのに反応がないとはおかしい。
「てめぇ、こいつに何をしたんだ?」
 すぅっと、ヤージュの目が細められた。正面からケーティアと視線をぶつける。
「怖い顔して。何もしてないわよ、まだ。ここに呼んだだけ。……それにしてもお
かしな話ね」
「?」
「この姫君を助けて貴方にどんな利点があるのかしら。むしろ敵対すべき相手では
なくて?」
「……一応、今は連れだからな」
 不機嫌そうにヤージュが言った。わずかに目をそらす。ケーティアが小さく笑っ
た。
「まあ、いいわ。今はこのまま退散してあげる。早く四人目を見つけてアネサルス
にいらっしゃい。待ってるから」
「なっ……」
 戸惑うヤージュをよそに、ケーティアは霧に溶けるようにして姿を消した。目を
こらすが後には何も残っていない。
「あら……?」
 呆然とするヤージュの耳に、間の抜けた呟きが聞こえた。
「気がついたか」
「ヤージュ? 私、今何をしていましたかしら」
 アルヴィナが訳の解らない様子で、ちょこんと首を傾げた。ヴェールが微かに揺
れる。どの辺りからかは知らないが、すっかり記憶が抜け落ちているらしい。
「ああ? 何をしてたかなんてオレが知るわけないだろ。いいから戻るぞ」
「はあ……」
 説明するのも面倒だし、ケーティアが何をしようとしていたのか、結局解らなか
ったので何も言わない。それでアルヴィナが納得するわけはないが、とりあえず無
視。リジェ達と合流するのが先だ。先へ進もうとして、振り返る。
「『今は』っつってたしなぁ。また探す羽目になるのは面倒だし……」
「はい?」
「こいつどっか抜けてるし……」
 ぶつぶつ言いながら何か考えていたヤージュだが、やおらアルヴィナの右手を取
った。
「え、あの……」
「はぐれたら面倒だからな! ここ、持ってろ」
 そう言って自分の服の裾を掴ませる。ちょっぴり顔が赤い。ラサがいたら「ひゅ
ーひゅー」などと囃立てられそうである。アルヴィナはとりあえず自分が一度はぐ
れてしまっていたらしいと見当をつけ、それなら彼の言うことももっともだとヤー
ジュの服を掴んだ。
「いいか? そしたら行くぞ」
「はい」
 歩き出した二人は、端から見ると『高原を散歩する小さな恋人達♪ いやー、若
いっていいねぇ』てな具合だった。端から見ている人はいないので、まぁ、関係な
いことだが。

 一方。
「そう言えば、あの時どうして歌ったの?」
 突然リジェがそう切り出した。霧のせいで変わらぬ景色の中を歩き続けるのに飽
きたらしく、ラサが歌を口ずさみ出したときだった。歌で思い出したらしい。
「え? あの時って?」
「ラサが雨を呼んで火を消してくれたとき」
 つまり、初めて水の精霊と意思を交わしたとき。何も言わなかったのに、ラサは
雨を呼ぶ歌を歌った。
「ああ、だってその前にヤージュが精霊呼んだときも歌だったし、もっと前にリジ
ェにも水の歌を頼まれたし。何かあるのかと思って」
「なるほどね……。すごいや」
 よくも覚えていたものだ。感心してうなずく。もちろん意味があることだったの
だ。教えない内に自分で気付き、すぐに最適な歌を選びだすあたり、さすが水の精
霊に守護を受けた者と言うべきか。でもラサなら、さすが『歌う舞姫』、と言って
やったほうが喜ぶかもしれない。
 しかし、ラサは推測で行動したにすぎないので、結局「なぜ歌なのか」はさっぱ
り解っていない。ラサは物問いたげな視線でリジェを見つめた。彼も、話題にした
からには当然答える。
「音楽に詳しいから、ラサなら聞いたことあるかもしれない。旋律には呪術的な作
用があるって」
 話がこと音楽となると、このにぎやかな踊り子は膨大な知識と実力を発揮する。
市井の音楽が中心だが、宮廷音楽だってへたな田舎の藩王よりも良く知っている。
本人もその辺は自信があるらしい。誇らしそうにいろいろ話してくれる。
 今もそうだった。
「もちろん知ってるわよ。昔から言われてるもの。旋律には不思議な力が込められ
てる。中には呪力が強すぎて一部の人にしか伝えられなかった歌曲もあるって話よ。
……あ、だから?」
「うん、それもある。歌は力を増幅してくれる」
 風の精霊が近づいているのを感じながらリジェが答えた。もうすぐ着くだろう。
「それに、水の精霊は天・空・地、三つの世界の境を開くもの。世界の狭間を守る
もの。司るのは、変化と流れ」
「変化と、流れ……」
「とも限らないけど」
 こけっ。
「……大丈夫?」
 大まじめにリジェが問う。差し出された手に掴まりながら、ラサは複雑な笑みを
浮かべた。
「リジェ、人をおちょくるという行為を覚えたようね。嬉しいわ」
「? いや、それだけじゃないって意味だったんだけど」
 ラサの言葉に、リジェは頭をかいた。どうも言い方が悪かったらしい。ちょっと
反省。別におちょくるつもりなんて微塵もなかったのに。
「例えば、風にも流れを司る面があるとか、そういう事」
 精霊の力は厳密に限定されるものではない。互いに重なり合う部分もある。とく
に水と風は相性がいいのか、似通ったところが多い。
「で、話を戻すけど、『変化と流れ』から二次的に水の精霊は旋律も司っているん
だ。言葉と旋律によって水の精霊は力を増幅させる。そして、他の精霊にとっても、
世界の狭間を司る精霊が力を増すことでこの地へ召喚されやすくなるんだ」
「ふぅ……ん」
 解ったのかなぁ? リジェは説明を止めてラサの顔を見た。彼女はしばらく視線
を泳がせていたがやがて頭をぶんと降った。
「要するに、歌を聞けば誰だって元気になるって事よね!」
「…………まあね」
 間違ってはいない。大雑把な理解ではあるが、それで十分とも言えた。
「それにしても、なかなか着かないわね」
「うん……」
 確かにそうだ。だいぶ近くなった感じはするのに、それ以上進んでいない。リジ
ェは黒い瞳をこらして遠くを見た。まるで霧の向こうを見透かそうとしているかの
ように。この霧は風の精霊の結界に違いないのだ。近づけないというのは精霊が拒
否しているという事。でも迷わされてはいない。かなり近くまでくることはできた。
これ以上の接近を拒むのは、何。
 悩むリジェの背中に突如、強烈な悪寒が走った。覚えのある感覚。瞬時にしてリ
ジェは疑問の答えが出た。虚空に向かって叫ぶ。
「ラーフィス! いるんでしょう!?」
「え、何? あいつがいるの!?」
 ラサが辺りを見渡しながらリジェの肩を掴む。どうもあいつは不気味で、できる
ことなら関わりたくないのだが……、向こうがそうさせてくれないらしい。
「ふむ。うまく隠れていたつもりだが。相変わらずだな。精霊に近づけないのも、
やはりオレのせいなんだろうな」
 霧の中からラーフィスは現れた。二人に緊張が走る。いつでも動けるように。し
かしラーフィスの視線からそう簡単に逃れられるとは思えなかった。
「そう警戒しないでくれ。今日は争いごとをしに来たんじゃない。ちょっといい事
を教えてやろうと思ってね」
「いますぐあんたが消えてくれるのが一番いい事だわ」
 リジェの服を掴んだまま、ラサが声を張り上げた。リジェは黙ってラーフィスを
見つめている。彼の言う『いい事』が、喜ぶべき内容ではないことは容易に想像が
つく。ただ、聞いておいたほうがいいには違いない。
 ラーフィスは、目の前の少年の態度に満足したようだった。薄い笑みを浮かべて
口を開く。
「世界の破滅が近いのだよ」
「……え?」
「『最後の審判』というやつさ。もうじきこの世界は混沌に還る。全てが在ると同
時に、全てが無い世界へ」
 『最後の審判』……啓典に記された世界の最後。今ある世界は全て崩壊し、審判
によって善と見なされた人間は至福の地へ転生し、悪行を重ねた者は火に焼かれる
という。
(でも……)
 ラーフィスは『混沌に還る』と言った。啓典にある『審判』の事を言っているよ
うで、そうではない。何もかも解っているといった様子だった。本当に、彼は何者
なのか。とは言え、リジェにも解ったことがある。
「世界を混沌に還すなんてさせない。僕達はその為に頑張ってるんだ。その為の
『審判』なんだ」
 決意を込めてリジェが言った。知らず、拳に力が入る。ラーフィスの金の瞳が光
る。
「ハ、頼もしいことだな。ルナの姓を継ぐ者よ。ならば手遅れにならぬうちに我が
元へ来るが良い。混沌はすぐそこまで来ている。早く来ることだな」
「あんたなんかに言われなくても、リジェはいざって時に遅れた事ないんだから!」
 馬鹿にしたような口調に、ラサが叫んだ。その程度でラーフィスの悠然とした態
度が変わるわけないのだが、言わずにはいられない。予想通り、彼は「だといいが
な」と答えただけだ。
「さて、これ以上邪魔するつもりはない。この辺りで引き上げさせてもらおうか」
 こちらの都合など全く無視して、ラーフィスは一歩退いた。同時にその姿が掻き
消える。声をかける暇などない。なんとも唐突な男だ。悪寒は消えたものの、リジ
ェの中にすっきりしないものが残ったのは確かだった。
(……正体がさっぱり見えてこない。……何をしたいんだ……?)
「リジェー。悩んでも始まらないわよ!」
 うつむきかけたリジェに、ラサの声が飛んだ。明るい声。リジェが顔を上げれば、
笑顔が目に飛び込んでくる。前向きな笑顔。
「……そうだね。今はやらなきゃいけないことを片付けないとね」
「そうそう」
 ラサが何度もうなずいた。それが合図だったかのように、二人の周りに強い風が
吹いた。目を覚ますような、冷たい風。一直線に霧を裂き、風は一筋の道となった。
道の奥には乳白色の壮麗な四本の柱が見える。壁もなければ扉もない。あえて言う
なら、この霧こそが壁だった。扉は今、風によって開かれた。その姿はまさしく風
の宮殿。
「綺麗……」
「うん。あそこに『空の翼』があるんだ。行こう、ラサ!」
 リジェはまっすぐ走り出した。遅れることなくラサも続く。足取りが軽い。すぐ
に柱の立っている場所まで辿り着いた。腰くらいの高さの台が四本の柱のちょうど
中央にしつらえてあった。白い石でできたその台の上には、水晶にも似た、透明な
輝きを持つ一枚の羽根が置かれていた。
「これ、が……?」
「間違いない、『空の翼』だよ」
 そっと手を伸ばしながらリジェが答えた。確かな力を感じる。触れただけで体中
を清浄な気が巡るようだ。持ち上げてみると、驚くほどに軽い。
 リジェは両手で『翼』を持ったまま、空を見上げた。
「風の精霊! 貴方の『翼』を確かにお預かりします。貴方の声を必要とする者が
現れた時にはどうか、その人に、そして僕達にお力を貸してください」
 隣で聞いていたラサも声を上げた。
「ごめんね。私には貴方の声が聞こえない。でも、必ず貴方の声を聞いてくれる人
はいるから、もう少しだけ待ってて。それに……今は無理でも、いつか、私でも、
他の誰でも貴方の声を聞けるようになるって信じてるから」
 話し相手がいないのは寂しい。だからラサはそう声をかけた。会話することがで
きなくても、話しかけることはできるのだから。
「……それじゃ、行こうか」
「うん」
 しばらく空を眺めてから、二人は風の道を戻り始めた。通り過ぎたそばから霧が
道を覆っていく。もう少しの間、この土地は結界に包まれたままなのだろう。風の
精霊が、守るべき者を見つけるその時まで。せめて、その時が近いことを祈ろう。
風の精霊のためだけでなく、自分達のために、世界のために。
「よぉ、首尾は? ……ってもまあ、その様子ならうまいこといったみたいだな」
 風の道が完全に消え去ったとき、聞き慣れた声が二人を呼び止めた。リジェとラ
サは同じ動作で声のした方を見る。焦げ茶色の髪をした少年が、軽く手を上げて立
っていた。彼のすぐ後ろにはちゃんとアルヴィナも立っている。ちなみにもう裾は
掴んでいない。
「ヤージュ!」
「早かったわね。アルヴィナすぐ見つかったんだ」
「おう、お互い無事みたいだな。なら、とりあえず下りるぞ。寒くて仕方ねーや」
 ……つくづく冷めた奴である。もうちょっとくらい再会を楽しむ場面があっても
いいではないか。しかし本人に言わせると、
「物事を現実的に考えているだけ」
ということらしい。
「っくしゅん!」
 …………確かに現実的な考えだった。

「寒かったぁ〜っ」
 月明りが大地を照らす頃。ヴァヒマ山脈麓の小屋の中、四人は火を囲んで座って
いた。火の上には小さな鍋がかかっている。冷えた体を暖めようと、ヤージュがチ
ャイを作っているのだ。
「手がまだかじかんでるぅ」
 ラサが両手をこすって派手な声を上げた。微かに体も震えているようだ。
「大丈夫? 毛布でも肩にかける?」
「ありがと、リジェ。でも平気。体だけは丈夫だから」
 そう? と荷物を解こうとした手を止める。小屋の中も暖まってきたし、確かに
もう平気だろう。考えてみれば旅に出る前にラサのいた所は南部の、温暖というよ
りむしろ亜熱帯の地域だったのだ。他の人よりこの寒さが堪えるのは当然。
「しゃーねーな。ほら、飲め」
 ヤージュが出来立ての熱いチャイをカップに注いだ。ふんわりと甘い香りが辺り
に漂う。
「ありがと」
「こんな時に風邪でもひかれたらたまらないからな」
 仏頂面で他の人の分を入れる。……照れてるな。
「でも『こんな時』っていうけど、これからどうするの?」
「うん……」
 リジェは受け取ったチャイを口元に持ってきて言葉を濁した。頭の中で今の状況
を整理する。
 精霊からの贈物は三つが揃っている。あとは『天の鏡』の外枠を探して、元に戻
さなくてはいけない。それと空界の精霊の声を聞く人物も見つけなくてはいけない。
しかしどちらも確たる目的地がない。どこから探せばいいか。
 それに、気になるのはラーフィスの言葉。もうすぐ世界が滅びると言った。なに
か始めるつもりなのだろうか。もしかしたら気付いていないだけでもう何かが動き
出しているのかもしれない。
「アネサルスに行こう」
「!」
 口を開いたのはヤージュだった。リジェは弾かれたように顔を上げる。
「このまま? まだ四人揃ってもいないのに?」
 らしくない、と思った。いつもヤージュはもっと慎重に行動している。こちらが
万全ではないのに聖都なんかに出向いては、神に背く者だと捕まるのが関の山では
ないか。
 訝しげな瞳で見つめられ、ヤージュは再び口を開いた。
「……霧の中でケーティアに会った。お姫さんに用があるとか言って」
「私、ですか……?」
 瞬きしてアルヴィナは自分を指差した。山の中で起こった事はほとんど覚えてい
ない。ケーティアという人物にも心当たりがない。何の用だったのだろう。
 アルヴィナは戸惑っているだけだったが、リジェとラサには驚きと緊張が走って
いた。そういえば二人の所に現れたのはラーフィスだけだった。
「それで、どうしたの?」
「ああ、オレが来て予定が狂ったらしい。今はおとなしく帰るって消えたけどな、
その時ほざいていきやがった。……『アネサルスで待ってる』だとさ」
「と言う事は、あの二人はアネサルスにいるんだ……」
 リジェは両手で持ったカップの中に目を落とした。ラーフィスの言葉、今聞いた
ケーティアの言葉が頭の中で回る。もうすぐ世界が壊れる。アネサリアで待ってい
る。手遅れにならないうちに。待っている。もうすぐ、手遅れ……。
「あの……」
 恐る恐るアルヴィナが口を挟んだ。彼等にとって聖都がどのような意味を持つの
か、彼女に知る事はまだできなかったが、一つだけはっきりしていることがあった。
「アネサルスにいらっしゃるというのなら私が便宜を図りますわ。まだ皆さんとは
議論したりませんもの。死罪になどさせません。私の友人としてご招待致しますわ」
「……いいのか? そんなことして」
 きっと世界中の人間から敵視されている背徳者を『友人』などと言って。ばれた
らアネサリアにとっておもしろくない事態になるだろう。だが、ヤージュははたと
気がついた。だからと言って、自分は何も困らない。だったらそんなに気にするこ
とないではないか。
(? まあ……騒動に巻き込まれたら面倒だけど)
「心配いりませんわ。だって皆さんが私の友人だというのは紛れもない真実ですも
の。ね、ラサ」
 ヤージュの心境など知る由もなく、にっこりとアルヴィナは笑ってみせる。ラサ
も笑顔でうなずいた。たとえ相入れぬ信念の持ち主でも、その気持ちは本当。
「……解った」
 ゆっくりとリジェが頭を上げて、皆の顔を見渡した。
「今のところ他に手がかりがないんだ。ためらうことなんてなかった。待ってるっ
て言うのなら何かがあるに決まってる。行こう、聖都アネサルスへ」
 いつか訪れなければならない場所だ。少し早くなったところで、もう構わない。
道中やアネサルスで捜し物が見つからないとも限らないのだし。今は進むしかない
だろう。
「よぅし、そうと決まったら早く行きましょうね!」
「ラサ……? 何でそんなに力はいってるの?」
 一筋の汗を垂らしながらリジェが尋ねると、ラサはきっぱりと言い放った。
「アネサルスってここよりはあったかいんでしょ?」