光のきざはし - 10章 XREA.COM

 ヴァヒマ山脈の麓に辿り着いたのは予定より十日ほど遅れてのことだった。すで
に長雨をもたらした雲は遠ざかり、季節は秋になろうとしていた。北に向かってい
たこともあって、もう風は冷たい。しかし一行は肌寒さをものともせず、あんぐり
と口を開けて立っていた。
「さすが、『最も天に近い山』……」
「近いどころか、天に届いてそうよね」
 目の前にそびえる山は頂上が見えない。雲がかかっているのではなく、あまりの
高さにかすんでいるのだ。山が、空の青に溶けているようだった。
「そう言えばこんな話知ってる?」
 ラサが思い出したように言った。
「こっちの地方の言い伝えだか、昔話だかなんだけど。太陽と月が北を通らないの
はヴァヒマの山々に引っ掛かるからなんですって」
「こうしてるとさ、それ本当かもしれないって思えてくる」
「でしょ?」
 リジェが同じように感じてくれたと解り、ラサは声を弾ませた。否定するのは簡
単だけど、そうかもしれないと考えるとまるで景色が違って見える。その感覚が楽
しい。
「……ところでよ」
「何?」
 ぽつりと呟いたヤージュに、青い山を見上げたままリジェが答える。
「そろそろ首が痛くねぇか?」
「…………そうかも」
 雰囲気ぶち壊しだが事実である。その言葉で皆いっせいに首を戻した。曲げたり
さすったりして痛みを和らげる。
「それにしても皆さんの目的地がヴァヒマでしたなんて、ついてきて良かったです
わ」
 布付き帽子のヴェールを下ろしながらアルヴィナが言った。顔を隠すために普段
はヴェールを下ろしているのだが、せっかくの景色だから直接見ようと上げていた
のだ。
「聖河の生まれる場所ですし、一度訪れたいと思っていましたの」
「確かにこの景色見たら、来てみたいって気持ち解るわ」
 ラサが大きくうなずいた。それを見てリジェが首をひねる。
「気持ちが解るって……ラサだってヴァヒマに来たかったんじゃないの?」
 確かそう言っていたと思うけど。自分が来たかったのに、この景色を見てから
「来てみたいと思うかもしれない」というのは何か矛盾してないか。
 ラサは小さく肩をすくめてみせた。
「だって私はやる事があってここに来ようとしてたんだもの」
「やる事?」
「そう。『生命の川』のできるだけ源へ行きたいの」
 視線を下ろせば聖河ガムナワティが静かに流れている。これからこの水は、世界
中の生命を潤していくのだ。
「それはいいとして、いい加減歩こうぜ」
 ずっとここに立っていても意味がない。ヤージュがくたびれたように声をかけた。
吹きさらしだからじっとしていても寒いし、到着したと言ってもまだ山の麓に過ぎ
ないわけだし。早いとこ進むなりもう休むなら仕度するなりしたい。
「さっきからあんた面白くないわね」
「現実的と言ってほしいな」
「まぁ……確かに本当だけどね。とりあえずもうちょっと歩いてから休もうか」
 やれやれとため息をつきつつ、リジェは提案した。少し早いけれど、そろそろア
ルヴィナが疲れているだろうから、もう休んだ方がいい。やはりお姫様というか、
結局体力がないのだ。彼女にしては頑張っているのだろうが、ここまで来るのに予
定より日数がかかったのはひとえにアルヴィナのせいであった。
 リジェの言葉で、四人は歩き出した。山に近いわりに道は整備されている。聖河
の生まれる場所として、巡礼に来る人が多いためだ。同じ理由でヴァヒマ山脈の麓
やガムナワティの本流ぞいには、巡礼者をはじめとする旅人用の休憩小屋が多く設
置されていた。そこまで辿り着ければ野宿をせずにすむ。
「この風の中、野宿なんてしたらこごえちゃうものね」
 それが小屋に入ったラサの第一声だった。小屋は、小さいが造りはしっかりして
いた。贅沢を言わなければ、なかなか快適に眠れそうだ。
 小屋には他に誰もいなかった。これから寒さが厳しくなるという時に、北の高山
まで来る人はさすがに少ないらしい。人気がないまま日が暮れたので、さっさと閂
をかけてしまう。
「何をやっていらっしゃるんですか?」
 ラサが珍しく一人静かに手を動かしているのを見て、アルヴィナが横から声をか
けた。
「調律」
「は?」
「ごめん。すぐ終わるから少し静かにしててくれる?」
 なぬ、とばかりにリジェとヤージュもラサを見た。あのおしゃべり大好き少女が
「静かにして」とは、どうしたことか。何か目つきも真剣だし。
 興味深げな三対の視線に気付いているのかいないのか、ラサは黙々と竪琴を鳴ら
しては弦についてるねじをしめ、ねじをしめては弦を弾いている。とても邪魔でき
そうな雰囲気ではない。いや、邪魔するつもりはないが。
「………………よし」
 最後に全ての弦をひと掻きしてから、ラサは満足そうに呟いた。直後ににこぱと
顔を上げる。この娘の表情の変化についていくのは至難の業だ。そしてこちらが戸
惑っている隙に喋りだすのである。
「おまたせっ! で、何だっけ」
「いや、ただ何してたのかなーって」
 アルヴィナに代わってリジェが答える。
「うん、これの調律してたの」
 ひょいっと竪琴を掲げてみせる。調律というのは音の狂いを直すことである。長
年使っていると弦が緩んでしまう。矢をつがえる弓箭琴ともなればなおさらだ。弦
楽器は弦の張り具合で音が変わるため、いつも調節してやることが必要なのだ。
「へぇー、そういう事ってやっぱりちゃんとするんだ」
「当たり前よ」
 感心しているリジェの隣で、アルヴィナが首をかしげていた。
「楽器……ですか?」
「そう。見たことないかもね。サウンっていうの」
 もはや忘れられた幻の楽器だ。いくら博識のアネサリアといえども解らないかも
しれない。かくいうラサも弾くことが出来るというだけで、あまり詳しいことは知
らない。
「これが、サウンなのですか」
 じっくりとラサの手元を見つめながらアルヴィナが感嘆した。ちょっとびっくり
したようにラサが目を丸くする。
「知ってるの!?」
「はい。現物を見るのは初めてですが、記録だけは読んだことがありますの。今の
音楽様式にはそぐわない音だったためにずいぶん昔にすたれたとありましたけど、
まだ演奏できる人がいらしたんですのね」
「へへ、まあね」
 ラサが得意げに鼻をこする。無理もない。彼女は失われかけた文化の貴重な伝承
者である。……なんかこういうと高尚に聞こえるな。実際そうなんだけど。いまさ
ら気付いて、リジェが「そっかぁ、すごいんだ」と声をもらした。しかし、竪琴自
体もよくあったものだ。一つ気付くと新たな疑問が浮かんでくる。
「今まで全然気にしてなかったけど、それ何処で手に入れたの?」
「うーん、それがねぇ。物心ついた頃には持ってたし。売られた時に唯一持ってた
荷物だって聞いたんだけど」
 家族と離れた直後の事はほとんど覚えていない。もとは何処に住んでいたのか。
家族はどんな人達だったか。そういったことはまったく記憶にないし、知らなくて
も困ることではなかった。竪琴にしても、今自分が手にしているのが大事なのであ
って、過去にどうした物なのかは問題ではない。問題ないはずだ。
「ごめん……。悪いこと聞いたみたい」
 ラサの考えは解らない。リジェは別れた家族を思い出させたのではないかと謝っ
た。幼い頃に家族と引き離され、大変な過去だったに違いないのだ。不用意に聞き
出すべきじゃない。
 しゅんとしたリジェに、変わらぬ調子でラサが笑った。
「そんな謝るほどのことじゃないわよ。はじめっから舞踊団のことしか覚えてない
んだから、親とか興味ないし。悲しいとも思わないし」
「興味ない……?」
 ラサが明るく言い放った台詞に、ヤージュが渋い顔をした。あえてそれ以上口に
しようとはしないが、見るからに不満ありげだった。アルヴィナも信じられない様
子で声を上げる。
「ご家族を探すおつもりはないと? その竪琴がきっと手がかりになってくれるで
しょうに」
 ピクリとラサが反応した。顔には寂しそうな微笑み。懐かしさと悲しみが、同時
に胸の中に蘇る。思わず、小さな呟きが漏れた。
「それ、リィハも言ってたな」
「え?」
 呟いたのは気付いたが内容まで聞き取れず、リジェが黒い瞳を瞬きさせた。一瞬
見せたラサの表情が胸に引っかかる。ラサに以前、何があったのだろう。
 だがラサは、その疑問に答えはしなかった。
「……何でもない! 危うく暗くなるところだったわ。そもそもサウンの話をして
たんじゃない。せっかくだから一曲披露するわ、何がいい?」
「まあ。弾いてくださるんですの? 嬉しいですわ、サウンの音色を聞く機会に恵
まれるなんて」
 アルヴィナが無邪気に手を叩いた。にっこり笑ってラサがそれに応える。
「で、何か弾いてほしい曲ないの? 歌とかだっていいわよ」
「ラサにおまかせしますわ」
「そぉねー、いろいろあるけど……」
 さっきの寂しそうな笑顔は気のせいだったのだろうか。本当にそう思えるほどラ
サはいつもどおりの明るさを振りまいていた。だけど、確かに見た。無理している
のではなかろうか。リジェは黙って目の前のにわか楽師を見つめていた。
 視線に気付いて、ラサは海色の瞳をリジェに向けた。微妙に表情が変化する。今
度の笑みは穏やかだ。
「私は大丈夫よ、リジェ」
「…………本当?」
 見透かされたことに多少の驚きを感じつつ、リジェは尋ねた。ラサが大きくうな
ずく。
「私、過去は悔やまない事にしてるの。悲しいのは嫌だもの。それに、私は踊り子。
人に感動を伝える者。どうせなら喜びを伝えたい。そのためにはまず私が喜びを知
ってなくちゃ仕方ないでしょ?」
「それはそうだけど……我慢しないでよ?」
 おまえが言うか、とヤージュが呟いた。以前倒れた時のことをまだ根に持ってい
るらしい。案外しつこい奴だ。
「我慢なんかじゃないわ。私が笑っていたいの、喜びを感じていたいの。……約束
したのよ、幸せになるって」
「約束……? 誰と?」
「それはまた今度! 呆れるくらいにたっぷり話してあげるわ。だけど今日は竪琴
を弾くの。おまたせ、アルヴィナ」
 ラサはくるっとリジェに背を向けて、いつもの明るい声を上げた。
「それじゃ私のお気に入り、『しあわせの国』第七番『陽気な踊り』よっ!」
 楽しそうな声に、リジェは肩の力を抜いた。今、ラサはこんなにも元気じゃない
か。無理して過去を聞き出してどうするつもりだったのだろう。今度話してくれる
と言うのだから、その時にせいぜい呆れさせてもらおう。
「ええい、この際続けて第三十九番の『楽しい小川』と二百十五番『呑気な太陽』
もまとめて弾いちゃえー!」
「なぁそれ……何番まであるんだ?」
 三桁の数字にヤージュは呆れ返った。待ってましたとばかりに、ラサはさらりと、
それでいていたずらっぽく答えた。
「七百二十六番よ」
「………………」
 もう何も言えん、といった様子でヤージュは右手を額に当てた。目を閉じて、わ
ざとらしくため息をつく。
(ふっ、勝ったわね)
 何にだ、ラサ。
「とゆーわけで……どーゆーわけだとかツッコミ入れるのはなしね、ラサ=マリア
ス、弾き語りしまーす」
 かくして絶好調のラサがたった三曲の弾き語りで満足するはずもなく、リジェや
アルヴィナが褒めるのをいいことに、ラサの独り舞台は延々夜中まで続いたのであ
った。

「ん……うぅん……」
 翌朝。差し込む朝日の眩しさにリジェはみじろぎした。頬に当たる冷気が眠気を
遠ざける。朝晩はすっかり冷え込むようになってしまった。暖かい毛布にくるまっ
たまま、何度か瞬きする。そうしているうちに頭もだんだん起きてきた。他に動い
ている人の気配はない。
(それじゃ火おこして……御飯でも作ろうか……)
 そしたら少しは暖かくなるだろう。リジェは寒さに負けないよう、気合いを入れ
て起き上がった。毛布がなくなり、冷気が容赦なく服の内側に入り込む。まだ秋の
はずなのだが……ずいぶん北の方まできてるからなぁ。
「とりあえず顔洗ってこよ」
 ついでに水も汲んでこよう。火をつけてから出ていくのは危ないし。
 寝ている人を起こさないよう、そっと毛布をたたんで立ち上がる。と、すでに毛
布が一枚たたんであることに気がついた。よくよく見てみれば一番端で寝ていたア
ルヴィナの姿がない。もう起きているのだろうか。
(早起きだなあ)
 自分のことは棚に上げてリジェは思った。きっと自分と同じ様に顔でも洗いにい
ったのだろう。僕も早く行こう、とリジェは水を汲むための鍋片手に外へ出た。
 小屋からはガムナワティに向かって細い道がのびていた。辺りにはまばらに常緑
樹が生えている。清々しい空気を胸に入れながら歩いていると、すぐに聖河の流れ
が見えてきた。しかし銀の髪を持つ少女は見当たらない。予想が外れたのだろうか。
リジェは不審に思いながら川べりまで来た。やはりアルヴィナはいない。
「どこ行ったんだろ」
 リジェは首をひねりながらも、とりあえず顔は洗おうと膝をついた。透明な水が
コロコロと音を立てて流れている。冷たいのをこらえて顔を洗うと、いっそ気持ち
良く、全身が引き締まるような思いがした。勢いよく首を振って水を飛ばす。と、
視界の隅に白い物が入った。
(布? 上等そうだけど……)
 何だろうと手を伸ばしかけて、リジェは気付いた。これって、ひょっとして……。
「ア、アルヴィナ様の服?」
「『様』は駄目だって言ってるでしょーっ!」
 にぎやかな声に続いてリジェの後頭部が小気味良い音をたてた。
「ラ、ラサ……? おはよう、もう起きたの?」
 小突かれたところをさすりながらリジェは声の主を振り返った。ラサは頬を膨ま
せてこっちを見下ろしている。何度か釘をさしたのに、リジェがまた「アルヴィナ
様」と入ってしまったのが気に入らないらしい。最近やっと呼び捨てになったと思
っていたのに、まだ抜け切っていなかったようだ。
 見るからに不機嫌なラサに、これは早く謝っておこうとリジェが頭を下げる。
「ごめん、もう言わない。大丈夫」
「本当ね?」
「うん、本当」
「ならいいわ。……まったく、起きてみたら誰もいないんだもん。焦っちゃったわ
よ」
 あっさりと機嫌を直してラサが言った。まだ眠気が抜けていないらしく、欠伸を
噛み殺している。ラサの台詞に、リジェはきょとんとした。
「あれ? ヤージュは?」
「ここ。おまえらいつまでも何してんだ?」
 ラサのさらに後ろから寝ぐせ頭のヤージュが現れた。まだ結っていない髪は腰の
辺りで好き勝手に跳ねている。目はなんだか半開きでぼーっとしてるし、典型的な
寝起きである。
「あんた、どこ行ってたの?」
「便所」
「あ、そう……」
 馬鹿な事を聞いたとラサがため息をついた。
「で、おまえらは何やってんだ?」
「何って……」
 何だろう。ラサは語尾を濁してしゃがんだままのリジェの方を見た。それを追っ
てヤージュも視線を動かす。二人の視線を受けて、リジェはさっき見つけた白い布
を指差した。
「あれ、何だと思う?」
 言われてそちらへ目を向ける。ヤージュは二、三度瞬きしてから目をこすった。
なぁんか、見覚えある気がする。ラサは、さすが女の子、というところだろうか、
すぐにそれがなんであるかに気がついた。
「アルヴィナの服じゃない。って、そう言えばアルヴィナは?」
「僕が起きたときにはもういなかったよ」
「…………つまり、なにか?」
 ヤージュが、寝ぼけ眼に不機嫌さが加わったひどい形相で言った。
「あのお姫様はこの河の中とでも?」
「い、いや、そうとも限らないけど」
 この寒いのに、朝早くから河に入るのはおかしな話だ。しかし、それなら川辺で
服を脱いで何するのか。ちょっと浮かばない。本当に、どこで何をしているんだか。
リジェが首を傾げていると、アルヴィナののんびりした声がふってわいた。
「あら、今日は皆さんお早いんですのね。おそろいでどうしましたの?」
「どーしたじゃ……!」
 一応少しだけ心配してやったのに、のほほんと出てきやがって。ヤージュが文句
をつけてやろうと声のしたほうに顔を向けた。と、その顔が硬直した。目を見開い
て、声にならない声で叫んでいる。だぁ〜っと顔が赤く染まった。
 幼馴染みの珍しい表情に、リジェは何事かとアルヴィナを見上げる。その瞬間、
彼もまた凍りついた。目をそらした方がいいんだろうなと思っているのに、体が動
かない。釘づけってやつだろうか。頭の中はパニックしている。
 服がここにあるのだから当然と言えば当然なのだが、アルヴィナは薄い肌着の上
に布を一枚羽織っただけという姿だった。すらりとした白い足があらわになってい
る。本人は気付いてないようだが、かなりきわどい所まで見えている。
「はいっ、二人ともあっち向く!」
 幾分顔を赤らめながら、ラサが硬直してるリジェ達の頭を強引にそむけさせた。
視界が切り替わってリジェは内心ほっとする。
「アルヴィナ! 何やってるの!?」
「沐浴前の瞑想が終わったところですわ。今日は神殿で決められた沐浴の日ですか
ら」
 あわてふためくラサを不思議そうに見つめながらアルヴィナが答えた。何かおか
しいことがあっただろうか。
「……沐浴……この寒いのに?」
「決まりですから」
「あ、そう…………」
 特に用はないらしい、とアルヴィナは判断した。軽く会釈して会話を終了させる
と、羽織っていた布さえ脱いで水に足を入れた。冷たくないのだろうかと思ってい
るうちにアルヴィナはどんどん進んでいく。そのうち肩まで水につかってしまった。
「……ラサ。もういいかな」
「ん、たぶん」
 リジェは河に背を向けたまま大きく息を吐いた。まだ顔はわずかに赤い。とりあ
えず、この場を早く去ろうかなと考える。立ち上がりかけて、空のままの鍋に気が
ついた。
「ラサ、悪いけどこれに水汲んでくれない?」
「あ、うん。解った」
 あの様子ならリジェがこっち向いたところで、何も言わなさそうだけど。ま、だ
からといってここでためらいもなく振り返るリジェも想像つかない。意味のないこ
とを考えつつ、ラサは鍋を受け取ると水を八分目くらいまで入れてリジェに返した。
「ありがとう。それじゃ、僕、先に戻ってるね」
「オレも……。顔洗うのは後でいいや」
 そそくさと立ち上がったリジェを追うように、ヤージュも腰を上げた。だが歩き
出す寸前、河まで視界に入らないようにほんの少しだけ振り向いて人差し指を突き
立てた。
「あ、おまえは残ってるんだぞ。ちゃんとお姫様を見張っとけ」
「は? あんたに覗かれないように?」
 背中で聞いていたリジェは危うく鍋をひっくりかえすところだった。どこからそ
んな発想が出てきたんだ。それとも覗きをしそうにみえるんだろうか。
「おまえはオレを何だと思ってんだっ。足でもつったら大変だってことだよ!」
 ヤージュは思わずラサに掴みかかりながら怒鳴った。冷たい水の中にいきなり入
って、体がショックを受けることはいくらでもある。そのまま溺れる可能性だって
大いにある。だから誰かが見ているべきなのだ。となるとここは女同士、ラサしか
いない。
「へぇー……」
 掴みかかられたことに腹を立てるでもなく、ラサは感嘆の息を漏らした。その瞳
はすぐ好奇の色に変わる。
「アルヴィナの心配してたんだ」
「べ、別にそういう訳じゃ……。とにかく! ちゃんと見とけよ」
「うんうん、解った。任せといて」
 ラサの声に送られながら、ヤージュは怒っているかのような歩調でリジェを追い
越していった。きょとんとしてそれを見送るリジェの背中に、ラサの呟きが聞こえ
た。曰く、あいからわず素直じゃないけど、意外と解りやすいのね。
 しかしそれが聞こえたからどうということもなく。実際に何をするかといえば。
(……早く戻って、御飯作ろ)
 当初の目的通りに行動するしかないのであった。