光のきざはし - 8章 XREA.COM

 瞳を開けた途端、頬に水滴が当たった。すぐさまそれは大粒の雨となって燃えさ
かる炎を鎮めていく。村を、森を包み込んでいく。ラサは空を見上げて微笑んだ。
願いを聞き届けてくれた精霊に。
「……ありがと」
(やっと、本当に、役に立っ……た……)
「ラサ!?」
「おい!」
 崩れるように座り込んだラサに、リジェとヤージュは声を上げた。
「平気よ。それよりさっきの女の人……」
「あ、うん。……ヤージュ!」
「解ってる」
 呼ばれた瞬間には、既にほとんど消えかけた火のほうへ駆け出していた。灰色の
煙をくぐって、倒れている女の側まで行く。
「どう? アルナさん、大丈夫そう?」
 ラサに手を貸しながらリジェが尋ねた。ラサの足取りがしっかりしているのを確
認して、ヤージュの側まで近付く。
「大丈夫、とは言えねぇかな。ま、死にはせんだろうが」
「うん……早く手当てしないとね」
 顔や手足に何ヵ所か火傷している。それに小さな傷も幾つかついている。決して
死に至る程の外傷ではないだろうが、油断はできない。自分達にちゃんとした医療
知識がある訳ではないのだ。外傷以外にも何かあるかもしれない。そう言えばずっ
と火に囲まれていて、かなり煙を吸ってしまったはずだ。早く風通しのいい場所に
連れていくべきだろう。
「エスター!」
 アルナを乗せていってもらおうと、リジェは四つ足の友を呼んだ。エスタリーシ
ャは水をはねながらすぐに近付いてきた。そこかしこに水溜まりができ、もう火は
すっかり消えたようだった。ラサが雨を止ませるべく歌っている。
「エスター、もうちょっとこっちに来て。ヤージュ、そこ……」
 かがんだまま、ふとリジェの動きが止まった。わずかに眉がつりあがる。感じる
のはここにあるはずのない気配。視線を落としたまま、リジェは震える声で問いか
けた。
「…………誰?」
「? リジェ……?」
 ラサが訝しげな声を上げた。ヤージュも眉をひそめてリジェを見ている。だがそ
れに答えはない。一方を睨みつけながら、リジェは音もなく体をおこした。その顔
にいつもの穏やかさはない。抑えた声で、もう一度言う。
「誰なんですか。……出てきてください」
 そこで、ようやく気付く。人の気配。ヤージュはそっとナイフの柄に手をかけた。
ラサも体を硬くしてリジェの見つめる方に視線をやった。
 三人の視線が集まる中、水のはねる音がして一人の少女がゆっくりと姿を見せた。
ブルカールのせいで顔は見えない。しかし白を基調とした簡素な服装は、神に仕え
る者の証であった。少女はそこに立ち尽くして何も言わない。
「もう一度言います。貴女は誰なんですか」
「……答えなくてはなりませんの?」
 少女の口から発せられたのは、澄み渡った、気持ちのいい声だった。
「答えていただかないと、僕は貴女を疑わざるをえないんです」
「疑い……?」
「あんたが森に火をかけたんじゃないかってね」
 ヤージュが横から口を挟んだ。リジェがうなずく。目の前の少女はこの土地の人
間ではないし、神に仕える者だ。そして森で燃えていたのは『聖火』だった。ここ
にあるはずもなく、普通の火事では有り得ない、神の火。
 少女は突然そんな疑いをかけられたことに不満を抱いたようだったが、このまま
黙っていても意味がないと口を開いた。
「……ただ、旅をしていただけですわ。ここにはたまたま迷い込んだだけで……。
それよりもそちらの女性、怪我なさっているのでしょう? 私に診させてください
な。多少心得がありますの」
 台詞の前半はどう考えても嘘だった。普通の旅人が西の果てにくるわけがない。
ましてやあの砂嵐を抜けてここまで来るなど、外の人間にはよっぽどのことがなけ
れば不可能なはずだ。「たまたま迷い込む」など絶対に有り得ない。一体どうやっ
てここまで来たのか。
 そして、何のために。
(でも……)
 彼女は手当てを申し出てくれた。怪しい所は多々あれど、この少女のことは、後
でいくらでも聞けばいい。それより今はアルナの手当てが先決だ。リジェは「落ち
着け」と自分に言い聞かせた。今大切なことを忘れてはいけない。自分たちではま
ともな手当てができる自信などない。それなら、心得があると言うこの少女に診て
もらったほうがいいに決まってる。
「顔、見せてもらっていいですか」
 リジェの言葉に少女は一瞬躊躇したが、素直にヴェールを上にあげた。澄んだ空
色の瞳と、肩口で切り揃えた銀糸のような髪が現れる。大人びた印象を与える美少
女だった。
 リジェは少女の瞳をじっと見つめた。相手もまっすぐにリジェの夜色の瞳を見つ
め返す。
 誰も口を開かない。リジェと少女の間に、糸がぴんと張りつめたようだった。ラ
サもヤージュも、エスタリーシャさえ微塵も動かず二人の様子をうかがっている。
 突然、リジェが緊張を解いた。
「すみません、お願いします。アルナさんを診てください」
「解りましたわ」
 ほっとしたように少女は笑みを浮かべて答えた。ヤージュはリジェの判断に複雑
な表情をしたが、何も言わず、立ちあがって少女に場所をあけた。少女はあいた場
所に座って怪我の状態を確認する。 ひょっこり、とラサが上から覗きこんだ。改
めて倒れている女性を眺める。二十歳前後だろうか、焦茶の髪は焼けてチリチリに
なっていた。しかし、すすに汚れた顔は、それでも勝気な印象を隠せなかった。
 火傷を診ていた少女はわずかに顔をしかめた。ヤージュがそれを見とがめて苛立
った声を上げる。
「おい、どうしたんだよ」
「いえ、思ったよりひどくて。でも大丈夫ですわ。跡は残らないようにしてさしあ
げますから」
「はぁ?」
 どうやって、という言葉は少女の動きに遮られた。白い手袋に包まれた指先が淡
い光を発し、火傷の上にひとつずつ模様のようなものを描いていく。
 リジェはその模様に引っかかりを覚えた。何処かで見たことがあっただろうか。
 少女が模様を描き終えた。アルナの身体全体が光っているように見える。その光
に手をかざし、少女は澄んだ声をはりあげた。
「慈悲深く、慈愛あまねき神の御名において」
 言葉と共に模様は輝きを増した。光に照らされて、傷がみるみる治っていく。驚
かずにはいられない光景だった。肌がすっかり綺麗になって、火傷なんて最初っか
らなかったかのようになる。
(神様、ねぇ……)
 ラサは複雑な表情をしたが、目の前で起こった事には素直に驚いた。『神の奇跡』
なんてそうそう拝めるものではない。彼女は持ち前の好奇心から、火傷が治ってい
くのを一部始終逃さぬようにじっと見ていた。
 そのすぐ側で、リジェが訝しげな視線を銀髪の少女に向けた。神の力による治癒
を行えるのは、高司祭以上の極めて少数の人間だけだ。例外もなくはないが世界中
を探しても片手で数えられるほどしかいない。『神の奇跡』の中でも治癒はとりわ
け高度なものなのだ。
 しかし、そこにいるのは自分と同い年くらいにしか見えない少女だ。顔立ちが少
し大人びて見えるとはいえ、子供には違いない。まさかこの年齢で高司祭位を持っ
ているというのだろうか。信じがたい事ではあるが、それが本当ならば、ますます
ここにいるのが怪しい。そんな高位の者がたった一人で旅をするだろうか。目的も
なく旅をするだろうか。
 ちらりと隣を見ると、ヤージュが険しい表情をしていた。似たような事を考えて
いるに違いない。ただ、リジェにはもう一つ疑問がある。先程の光の模様、あれは
何だったろうか。頭の中を整理しようと、額に手を当てながら視線を泳がせた。少
女がまとっている布の金の縁取りが目に入る。
(あれ? ひょっとして……。うーん、でもそうするとこの人って……)
「あの、終わりましたけど」
 こんがらがりだしたリジェに、少女が声をかけた。
「もう大丈夫のはずですわ。じきに目を覚まされるでしょう」
「あ、はい。ありがとうございました」
 丁寧に頭を下げるリジェと、あとの二人に、少女は微笑んだ。ヤージュはおもし
ろくなさそうにふいと横を向いたが、ラサは好奇心のままに喋り出した。
「すごいすごいすごいっ! こういうのって初めて見た。びっくりしちゃった。本
当にできるんだね!」
「え、ええ……」
「あ、はじめまして。私ラサ=マリアスっていうの。貴女の名前は? 聞いてもい
い?」
「え、あの……私は、その……」
「おまえは落ち着きってもんを知らんのか!?」
 妙に瞳をキラキラさせて勢い込んでいるラサをヤージュが後ろからどついた。こ
んな怪しさ大爆発の人間に、ほいほい名乗ったり親睦を深めようとしないでくれ。
確かにアルナを助けてくれたけど、だからといって簡単に信用するには不安材料が
山ほどある。
 ヤージュがラサに文句をつけている間に、リジェは銀髪の少女をもう一度眺めた。
そうして頭の中に湧いてきた考えを確認する。
「どうか致しまして?」
 視線に気付いて、少女が首をかしげた。さらりとリジェが答える。
「いえ、どうして最高司祭様がこんな場所にいらっしゃるのかと思いまして」
「…………!」
「……………………は?」
 唐突なリジェの言葉にラサとヤージュは言葉を失った。わけが解らぬ様子でリジ
ェの顔を見る。そのリジェが見つめる少女は明らかに動揺して、目の前の少年の顔
を見つめ返していた。言葉を発した本人だけが平然としている。
「貴女なんでしょう、……アルヴィナ様?」
 畳みかけられて、少女はため息をついた。苦笑をしながらリジェに答える。
「何処かでお会いしましたかしら」
「いいえ。近くで会うどころか、遠くから拝見したこともありませんよ」
「……初めてお目にかかった方に見破られるとは思いませんでしたわ」
 自分の格好を確かめてから少女が言う。もうすっかり諦めたようだ。
「せっかく髪も切りましたのに。どうして解ったんですの?」
 どうりで、ラサがとうなずいた。長くのばしてきちんと手入れすれば、素晴らし
く綺麗な髪だろうにと思っていたのだ。人目につきたくないのなら隠した方が無難
だろう。「輝く月のごとき」と詩人をして言わしめるほどの美しさならなおさらだ。
そのままでは目立たないわけがない。
 しかし、こっちにとって、それはどうでもいいことだった。肝心なのは、今の言
葉によって少女がリジェの指摘を認めたという事。
「マジ……?」
 ぼそっとヤージュが呟いた。どんなに唐突で不思議なことだろうと、リジェの台
詞ならたいてい信じる。リジェにしか解らないことがあるし、リジェは無駄に嘘を
つかない。けれども、今度ばかりはヤージュもにわかにそれを認められずにいた。
 その様子に気付いて、少女がうなずいた。
「そうですわね、これ以上隠しても意味がありませんもの。自己紹介致しましょう。
お察しの通り、私はアルヴィナ=シーン=アネサリア。聖王カルマン=シーン=ア
ネサリアの妹にして最高司祭の位を授かった者ですわ。よろしければ皆さんの名も
お聞かせ願えませんかしら」
「僕はリジェ=ルナです」
「私はさっきも言ったけどラサ=マリアス。ラサって呼んでね……呼んでください」
「……ヤージュ=パティーグ」
 二人がさっさと名乗ってしまったので、仕方なくヤージュも口を開いた。自分だ
け黙っているのもガキくさいし、一応相手は正体を明かしている。とりあえずアル
ナを助けてくれた恩人でもある。
「そんで? 聖都にいるはずのお姫様がなんだってこんなとこにいるんだ」
 相手がアネサリアだろうが問答無用のタメ口である。いいのかそれで。思わずリ
ジェが小声で注意する。
「ヤージュ、その言葉遣いはちょっと……」
「いいから。答えろよ、何しにきた?」
「…………それは……」
 その時、ブルブルと荒い鼻息が聞こえた。
「エスター?」
 振り返って名を呼んでから、リジェはエスタリーシャを連れてきたままだったの
を思い出した。アルヴィナが姿を見せる前に離れてもらうべきだったのに。すでに
伝説上の生き物である『神の馬』が見つかったとあれば、大騒ぎされるに決まって
いる。エスタリーシャを見世物にはしたくない。
 さいわい、エスタリーシャはずっとリジェの後ろにいたので、アルヴィナはまだ
エスタリーシャの角に気付いていないようだ。そのままエスタリーシャの頭を隠す
ように動く。
「エスター、どうしたの?」
 エスタリーシャは前足を動かした。その動きにつられて皆が下を見ると、アルナ
がちょうど目を覚ますところだった。
「アルナさん!」
「よかったぁ」
 全員の注意がアルナに向かった一瞬に、リジェはエスタリーシャをこの場から離
れさせた。
「あ……私……?」
「アルナさん、大丈夫ですか? 起きられます?」
「リジェ君? ええ、大丈夫よ」
 アルナは一瞬、自分のおかれた状況が理解できなかったようだが、すぐにしっか
りした答えを返した。一同ほっとする。
「ったく、迷惑かけてんじゃねーよ」
 途端にヤージュの軽口が始まった。アルナがピクリと眉を動かす。
「……ヤージュ、あんたいつからそんな偉そうな口がきけるようになったの」
「何だよ、本当のこと言っただけだろ」
「黙んなさい、弟の分際で逆らうんじゃない!」
「…………弟?」
 アルナの言葉にラサが固まった。
「あ、馬鹿。姉貴……! 黙ってたのに……」
 ラサは慌てるヤージュを見て、それからリジェに視線を移し、指差して尋ねる。
「…………お姉さん?」
「そう」
 こっくり。
「………………へぇー……」
 別にすごいことでも何でもないのに、何故かびっくりしてしまう。言われてみる
と髪の色や目元が似ている。ラサがじっと見ているとアルナが視線を返した。
「リジェ君、そちらのお嬢さん達は?」
「あ、そっか。紹介しないとね」
 リジェが言い終わらないうちにラサが元気よく手をあげた。
「はいっ、私、ちょっと前からリジェ達と一緒に旅させてもらってるラサ=マリア
スっていいます。踊り子やってまーす。お姉さんとはなんとなく気が合いそうだと
思うのでよろしく」
「一緒に……? そう、それじゃ貴女が三人目なのね。私はアルナ=パティーグよ。
この馬鹿の姉なんかやってるんだけど。ま、よろしく、ラサ」
 元気一杯なラサに、アルナは微笑みながら答えた。それから首を巡らせてアルヴ
ィナを見る。
「さて、それじゃあこっちのお嬢さんは?」
「あ、ええ。私は……」
 アルナの目が覚めてから蚊帳の外だったアルヴィナは、いきなり自分のほうへ話
を振られて戸惑った。あまり多くの人に名を明かしたくない。
「この人は、アルナさんの怪我を治してくれた人ですよ」
 横からリジェが助け船を出した。アルナならこう言えば相手が名を知られたくな
いと気付くだろうし、大体どんな人物か見当もつくはずだ。事実、アルヴィナに関
しては一言礼をしたきりアルナはそれ以上何も言わなかった。
「さて、それじゃあどうする? 皆の避難先は解ってるけど、すぐに行く?」
「そうですね、皆のことも心配だし……」
 リジェは考えながら横目でアルヴィナを見た。結局、何のために来たのかはまだ
聞いていない。考えなしに他の皆のところへ連れていくのはヤージュでなくても問
題あると思うだろう。だからといってここに置いていくのも考えものだ。聞きたい
こともある。
 リジェはアルヴィナに向き直った。
「申し訳ないんですが、僕達と一緒に来ていただけませんか。貴女一人ここに置き
去りにするわけにもいきませんし。体を拭くものくらいお貸ししますよ」
 先程降った、正確にはラサが降らせた雨のせいで、皆服が濡れている。早く着替
えるなり、乾かすなりしないと風邪を引いてしまう。
「そうですわね、私もお尋ねしたいことがありますし。火事から逃げた方々の所へ
行くのなら怪我をした方もいらっしゃるでしょう。解っていながら放っておくわけ
にはいきませんもの。よろしいですわ、ご一緒致しましょう」
 ついてくるだけのことにそこまでごたく並べるなよ、とヤージュがぼやいた。仕
方ないとはいえ、最高司祭様と同行するのは彼にとっておもしろくないことだった。
不機嫌そうに顔をそらしてアルナに頭をこづかれる。
「それじゃ行きましょうか」
 睨みつける弟の視線を軽くかわしてアルナは皆を促した。振り返るでもなく、早
足で歩きだす。何はともあれ、他の人が心配なのだ。無事だとは思うが、直接確か
めないと安心しきれない。向こうだってアルナがいつまでたっても来なければ心配
するだろう。
 もっともだとうなずいて、リジェは濡れた地面の上を歩きだした。あとの者も異
論を唱えるわけがなく、おとなしくそれに続く。
 静かにしていられないラサのおかげで、一行は話に花咲かせながら森の中を南へ
と歩いていった。
「……ところで姉貴、またリジェに変な事吹き込んだだろ」
「変な事?」
「女の髪形と服を褒めろとか何とかいうやつだよ。こいつ単純だからマジに信じて
たぞ」
 そう言えば、とラサが隣で手を打った。前に新しい服を見せたとき、そんなこと
言ってたっけ。あのときはヤージュが邪魔して誰が教えたのか解らなかったけど、
アルナだったらしい。そんなに姉の存在を知られたくなかったのだろうか。
「何言ってるの、本当のことじゃない。少しも変じゃないわ」
「そうよ。褒めてもらって嬉しかったし」
 アルナは後ろ暗さや動揺など微塵もみせない。こういうノリは大好きだ。ラサは
思わず相槌を入れた。アルナが嬉しそうに振り返る。
「でしょ? こいつはそういうの解んないのかしらねぇ」
「気が利かないって言うか、ねぇ」
「だからってそれのどこが諺なんだよ!」
「私がそういう事にしたからよ」
 涼しい顔でアルナが答える。なんだそりゃと思いつつも、ヤージュは反撃の言葉
が浮かばない。悲しいかな、これが生まれついての上下関係ってやつなのだ。昔か
らヤージュはこの姉にだけはかなわなかった。
「やっぱり私、お姉さんとは気が合いそうだわ」
 ラサが笑って言った。
「そうかもね。だったらアルナでいいわよ」
「本当?」
 悔しがるヤージュをよそに、二人はすっかり意気投合していた。ラサなんか、も
ともと人見知りしない方だったが、これはまるで昔からの親友のようである。リジ
ェはびっくりしてぽつりと呟く。
「なんて言うか、すごいかも……」
 知り合いどうしが仲良くなるのって嬉しいからいいけど。隣を見ればアルヴィナ
がきょとんとした表情でラサを見てるし。宮殿ではこんな会話する人いなかったに
違いない。
 そんな具合に仲良くなったり、ふてくされたり、驚いたりしているうちに、五人
は森を抜けた。辺りが岩がちになり、道が登りになったところでアルナが足を止め
た。遠くで微かに水の音がする。
「あそこよ。リジェ君達が帰ってるって知ったら皆きっと喜ぶわ。早く行きましょ
う」
 アルナが目の前を指差した。坂の下にぽっかりと大きな穴が開いている。水の音
はそこから聞こえているらしかった。確かにこの洞窟は地下水脈につながっている
ようだ。アルナに促されるまま一行は洞窟の中に入っていった。

 ざわざわざわ…………。
「あの、本当に治さなくてよろしいんですか?」
「いらんと言ったらわしゃいらんのです。他の奴を治してやってくだされ」
「……そう致しましょう」
 ため息をついてアルヴィナは老人の前から立ち去った。老人の態度は腑に落ちな
いが、とりあえず怪我人の手当てが先と、癒しの必要そうな人を探す。
 人々のざわめきに混じって、軽快な足音が聞こえてきた。続いて短く風を切る音
がする。
「おっかえり〜!」
「おっ!?」
 嬉しげな声と共に繰り出された木の棒をヤージュは紙一重でかわした。棒は細く
削られ、握っている方に布が巻き付けてある。剣の練習用の棒だ。
「はっ」
 もう一度、今度はヤージュの脇腹めがけて棒が突き出される。それもヤージュは
一歩右に動いてかわした。すかさず棒が横に払われる。それを飛び上がって避ける。
さらに二度、三度と棒が繰り出されたが、ヤージュはそれらに一度も触れることな
く、全てかわしていた。
 いつまで続くのかと思い始めた頃、棒が今までにない曲線的な動きを見せた。一
瞬ヤージュが目を見開く。かわしきれない……!
 棒の先は彼の胸元を捕らえたかに見えた。が、すんでのところでヤージュの手が
棒を掴んだ。
(あっぶねー)
 ヤージュは内心冷や汗をかく。そこへ棒の持ち主がガバッと抱きついてきた。
「お兄ちゃん、おかえり! ね、ちょっとは私強くなったぁ?」
「おお、まあ前よりはな。だから離れろ」
「やぁーだよ」
 言いながら、ぎゅっと腕に力を入れてしがみつく。もうこのまま離れないんじゃ
ないかというくらいだ。本当に嬉しそうに、ヤージュに顔をすり寄せている。
 たまたま近くにいたラサが、その様子を呆然と眺めて、呟いた。
「ヤージュに子供がなついてる……」
「どーゆー意味だ、てめー」
 聞き慣れぬ声に、ヤージュにしがみついていた少女は兄以外の存在にようやく気
付いた。服のしわを伸ばし、ラサに正面から向かい合う。ややつり目気味で、いた
ずらっぽい表情がとても可愛い。
「お会いするの初めてですよね。お初にお目にかかります、お姉様。私はラニア=
パティーグと申します。以後お見知りおきを」
「あ、ご丁寧にどうも……。私のことはラサって呼んで」
 十歳かそこらの女の子にばか丁寧な挨拶をされ、ラサはしどろもどろで返事をし
た。しっかし……『パティーグ』ってことは、やっぱり本当にヤージュの妹なのか。
妹がいるってことよりヤージュが『お兄ちゃん』だというのが信じられない。
「お姉さんだけでなく妹さんまでいるとはねぇ」
 いやはやびっくり。しかもこの妹がまたヤージュにずいぶんなついてるし。一体
どんな『お兄ちゃん』やってるんだろうか。
 変な感心をしている奴は無視することにしてヤージュは妹の頭にポンと手を置い
た。
「皆元気にしてたか」
「……見たまんまだよぉ」
「そらそうか」
 さすがに火事から逃げてきたばかりの人間が元気一杯というのはないか。ヤージ
ュは苦笑を浮かべて周囲を見渡した。火傷を負った人や疲れて眠り込んでしまった
人や、様々だ。 喜びの声を上げている一角もある。
「リジェ様、久方振りでございます。お元気そうで何よりです」
「ありがとう。皆も無事みたいで良かったよ」
 リジェの周りには幾人かの男女が集まっていた。青年から老人まで全員が再会の
喜びに顔をほころばせている。一人の青年が声を上げる。
「一時はどうなることかと思いましたが、アルナも助かりましたし、本当に良かっ
た。これもすべてリジェ様のおかげです」
「それは違うよ。火を消したのはラサだもの」
 笑顔を浮かべ、リジェは名を口にした少女をちらりと見やる。ラサはすでにヤー
ジュは放っておいて、初めて会ったばかりの小さな子供達と一緒に歌っていた。ラ
サが竪琴で弾き語りをし、それにあわせて子供達が歌う。突然の災害で不安や恐怖
に襲われた心を、ラサは少しでも慰めようとしているのだ。不安に怯えて生きるな
んて大嫌いだから。どうせ生きるのなら楽しい方がいい。
「明るくて、いい子ですね」
 艶やかな黒髪の女性が、リジェの側に近付きながらそう言った。
「母さん!」
「おかえりなさい。元気そうで良かった。でも、珍しいわね。貴方のことだから全
てに決着がつくまで戻ってこないかと思っていたけど」
「……本当はそのつもりだったんだけどね」
 リジェは複雑な笑みを浮かべた。不本意な帰省だけれど、そのおかげでアルナを
助け、火事を消すことができた。とは言え、途中で帰ってくるなんてやっぱりかっ
こ悪い。「もう安心だよ」って胸を張って帰ってきたかった。十四歳だもの。格好
を気にする年頃なのだ。
「何か、あったのね」
「うん。実は……」
「まあ待ちなさい」
 リジェが話しだそうとするのを母親は静かに遮った。
「長旅の上、あんな火事があったりして疲れたでしょう? お父さん、貴方と入れ
違いで焼け跡の様子を見に行ってるの。もうじき帰ってくるからそれまで少し休み
なさい。話はお父さんが帰ってきてから聞くことにするわ」
「……解った」
 実際、緊張しっぱなしで疲れていたのでリジェは素直にうなずいた。
(あ、エスターどうしてるかな。あとで見に行こ……)
 それぞれの思いを包み込んで、一日が終りを告げようとしていた。

「これで三人目が目覚めたな」
 静かな森の中、崩れかけた屋根の上に、腕を組んで立つ男と傍らに座る女。夜風
に髪をなびかせて、二人は闇を見つめていた。
「大切なものを守りたいという声が精霊に届いた……か。素敵だわ。人間はそうで
なくっちゃ。ねぇ、ラーフィス」
「…………そうだな」
 楽しげに問いかけるケーティアに、ラーフィスは小さく笑みを浮かべて答えた。
「しかしこれであと一人。我々もうかうかしていられないな」
「それに、何故かお姫様がこんな所にいらっしゃるようだしね。どうする?」
 人差し指の先に浮かんでいたロウソクほどの炎を事もなげに吹き消し、ケーティ
アは傍らの男を見上げた。
「とりあえず、先回りでもしておくか」
「解ったわ。ヴァヒマ山脈ね」
 艶やかな笑みを浮かべると、ケーティアは右手を一閃させた。二人の姿が闇に消
える。後にはただ、焼け焦げた屋根ばかりが残っていた。

 洞窟の中は焚き火に照らされて、影が不思議な形に揺れていた。小さな子供や怪
我人はすでに寝静まっている。残った大人とリジェ・ヤージュ・ラサ・アルヴィナ
の四人が焚き火を取り囲んで座っていた。
「それじゃ、お嬢さんは火をかけてはいないと言うんだね」
 一人の男が疑わしげな声で言った。それを聞いてアルヴィナがキッと眉をつりあ
げる。
「当たり前です。そのような事、神に誓ってありません!」
「神に誓って、ね……」
 ぼそっとヤージュが呟いた。そんなものに誓われたところで、何の感銘もありゃ
しない。その声にアルヴィナが小さく反応した。
「そんなら聞かせてもらおうか。あんた何しに来たんだ? ここには並大抵のこと
では来れないはずだ。迷いこんだだけなんてあるわけねぇんだよ」
「……そう、ですわね。皆さんがここの住人であるというのなら、黙っていても意
味がありませんわね。探していたのは皆さん方かも知れませんもの」
「どういうこと?」
 ラサがきょとんとして尋ねた。アルヴィナはふっと口元を緩めた。この少女は何
と無邪気なのだろう。それともこれが年齢に見合った反応なのだろうか。周りにい
るのは今まで大人ばかりだったからよく解らない。でも、決して嫌な感じじゃない。
この感じはなんだろうと思いながらアルヴィナは答えた。
「私は神に背く者達を探すため、ここまでやってきたのです。そして多分、……こ
こに来たのは正解ではありませんか?」
「!!」
 その場にいたほとんどの人間が凍りついた。緊張が走る。そして、それこそがア
ルヴィナの問いに対する肯定であった。しかし、リジェは柔らかな笑みを浮かべて
尋ね返した。
「どうして、そう思われるんですか?」
「簡単なことですわ。かつての聖戦より今日に至るまで、ずっと姿を隠していられ
る場所などそうあるものではありません。長きに渡り人が足を踏み入れなかった場
所。地図にすら載っていない場所。そこに人がいれば、それは私の求める者だと思
いましたの。ですから私はここまで来たのですわ」
 それに周囲の反応がいつもと違いますし、と胸中で付け加える。治療を断った老
人の態度、『神の奇跡』に無感動な人々。彼女にとっては信じがたい存在であった。
それゆえに目の前にいる彼等が探していた人々だと確信する。
「神を信じぬ者、貴方がたがそうなのでしょう?」
「……まいりました。そういうことにしといてください」
 笑顔のまま、リジェは手をひらひらさせて降参した。しかし、ふと思い出して横
を見る。
「あ、ごめん、ラサ。一緒にしちゃまずかった?」
「何言ってんの。一緒に旅するようになってから、お互い一度もお祈りしてるとこ
見た事ない人に、今更聞かないでよ」
「それもそうか」
 アルヴィナは呆れたようにそのやりとりを見ていた。それから、少しいたずらっ
ぽい口調で言う。
「……ずいぶんと余裕がおありですのね。私の事が解っているのですから、神に背
く者に対して何をするか、想像がつくのではなくて?」
「少なくとも貴女は僕達に危害を加えたりしませんよ」
 笑顔は崩さず、しかしきっぱりとリジェは言い切った。その強い断定の言葉に、
アルヴィナは困惑の表情を見せた。そこまで言い切られる理由が解らない。
 と、ヤージュがつまらなそうに口を挟んだ。
「そんなのおまえの行動を見れば一目瞭然だろ」
「どういうことですの?」
「いいか。まずオレ達を殺すなり、捕まえるなりするつもりだったら何もあんたが
一人でここまで来る必要はない。むしろ他にも腕の立つ奴と一緒の方がいい。てゆ
ーか普通はそうするだろ。それに怪我人を助けたりもしないだろうし、今だってオ
レ達のことに気付いても黙ってて後で寝首をかくほうが確実だ。あんた馬鹿じゃな
さそうだし、そうするともっと他の事をしに来たんだろ」
(珍しい……。ヤージュがいっぱい喋ってる)
 そこまで言葉にまとまっていなかったのでリジェはほけーっとそれを聞いていた。
面倒臭そうではあるけどちゃんと解説入れてくれるんだからヤージュって親切だよ
なあ。
 アルヴィナもそこまで言われると納得してうなずいた。
「なるほど。聡明でいらっしゃいますわね」
「見かけによらず、か?」
「とんでもないですわ。感心しているんですのよ」
 さらりと出てきた言葉に、ヤージュの表情がわずかに変化した。奇妙なものでも
見るような眼差しで目の前のお姫様を見つめる。
(それはそれは。アネサリア様に感心されるとは光栄の至りで)
「それで、ここからが解らないんですけど。結局……何のために思ってここまで来
たんですか?」
 黙ってしまったヤージュに代わって再びリジェが話しかけた。神に背く者を探し
に来たと言うけれど、それでは見つけてどうする気だったのか。
「和解できませんか?」
「和解?」
「このままでは、お……陛下がここを見つけてしまったら、陛下の命を受けた者が
皆さんの命を奪いにきてしまいます。血が流れるのは、見たくありません。取り返
しのつかないことになる前に話し合いたくて、私はここまで来たのです」
「そうか。じゃ、やっぱりここはもう見つかっちゃったのか……」
「え……?」
「だって火事で燃えてたの、『聖火』だったもん」
 彼女が信じている神に誓ってくれたのだから、火をつけたのは絶対にアルヴィナ
ではない。アネサリアが神に誓うというのはそういう事だ。でも、神の力が加えら
れた炎が自然火災で発生することも有り得ない。となると、アルヴィナの他にも誰
かがやってきたという事で、それはカルマン=シーンの手の者に違いなかった。
「で、ですが……まだ手遅れではないはずですわ!」
 話し合いで解決できたのなら、カルマンもそれ以上無駄な争いはしないだろう。
いつもは、決して暴力に頼る人ではないのだ。優しい、尊敬できる人だ。アルヴィ
ナにとって、兄はいつでも理知的で聡明な王であった。
「今からでも、きちんとお話すればきっと解ってくださいます。ですから……」
「ありがとうございます」
 見ず知らずの、それもこれまでずっと敵視していた人間に対して、こうも考えて
くれる人がいることにリジェは驚き、嬉しくなった。争いを避けるために、この少
女はたった一人で砂漠を越えてやってきた。それまでの生活とは天と地ほどの差が
あったはずだ。それでも、ここまで来てくれた。苦労しただろう。その苦労は自分
達のためにされたものなのだ。
(でも……)
 リジェだって本当は両者の間にある垣根など早く取り去って、皆と仲良くしたい。
気を遣わずに話をしたい。でも、それでもここで和解を了承することはできない。
「ごめんなさい」
 笑みが消え、リジェは絞り出すようにそれだけ言った。
「……どうして!?」
「だって貴女の言う『和解』って……僕達に神様を認めろってことでしょ? それ
は、無理だもの」
「オレ達にはオレ達なりの言い分ってのがあるんでね」
「その『言い分』に従って、やらないといけない事があるんです」
 今ここで簡単に和解できるようなら、こちらの言うことが認めてもらえるなら、
何年も旅に出ていたりしない。自分達には、もう行動で己の真実を示すしかないの
だ。
「……それは、命と引き換えにしてまでやらねばならない事なのですか!?」
「まさか。引き換えになんかしませんよ。命懸けではあるけど。僕はまだ死ぬつも
りないし、僕の大切な人達も死なせない。だって、やるべき事をやり終えて、人生
それからだもの」
「…………」
 アルヴィナは深いため息をついた。確かに簡単にいくわけないと思ってはいた。
だがこうも頑なな態度を取られるとどうしたらいいのか解らない。このままではい
けないのに。
「すまないね、遠くから来てくれたのに」
 一人の男がアルヴィナに言った。
「本当は我々も解り合いたいと願っているんだ、それこそ遥かな昔からね。でも君
達は我々が真実だと思っていることを受け入れてくれない」
「……真実…………?」
「そう。だから今は認めてもらうために証拠を集めているようなものなんだ。そう
でもしないと、信じてくれないだろう?」
 言われてみればそうかもしれない。アルヴィナにとっての真実は神でしかない。
神を信じぬ者達が何を考えているのか、何を信じているのか、そんな事も解らずに
一方的に和解をもちだしても納得されるはずがない。自分が浅はかだったことに気
付かされて、アルヴィナは沈黙した。
「ま、別に君を嫌っているわけじゃない。怪我人の治療もしてくれたし、感謝して
いる。今日はもう疲れたろう。ろくな寝床も用意できないけど、今日はもう休んで
くれ。話なら明日でもできるさ」
「…………はい」
 焦っても仕方ない。アルヴィナは小さくうなずいた。長い年月の間にできた溝は
大きく、深い。そう簡単に埋まりはしないのだ。
「それでは、先に失礼させていただきますわ」
 立ち去ろうとする背中は、ひどく小さく見えた。寂しそうな背中だ。放っておく
のが悪い気がしてラサが腰を上げた。
「待って、アル……じゃない、えっと……」
 本名はまずいと途中で口ごもる。
「そうですわね。アーヴィ、とでもお呼びになってください」
 呼び名がなくては確かに不便だとアルヴィナは振り返って言った。「なんだそり
ゃ」とヤージュがつっこむ。
「幼少の頃、自分の名がうまく言えなくてこう言っていたと母に伺いましたの」
「あっそう……」
 どうでもいいことだったのですぐに黙る。
「じゃ、アーヴィ。私も一緒に行くわ。いいでしょ、リジェ?」
 寂しい人を放っておけない。今の彼女は独りぼっちだ。独りは寂しい。同年代な
んだし、話し相手くらいにはなれるはずだ。ラサは一応リジェに確認をとりながら
も、すでに立ち上がっている。
「うん、解った。おやすみ、ラサ」
「また明日ね。行こ、アーヴィ」
 そうしてラサとアルヴィナは奥の方へと消えていった。それを見送ってから、黒
い髪の先程アルヴィナに声をかけた男がリジェに向き直った。
「さて、待たせて悪かったね。どうして戻ってきたのか。話を聞こうか、リジェ」
「はい、父さん。これを見てもらえる?」
 リジェは服の内側から包みを取り出した。目の前において、丁寧に布を広げる。
現れたのはひび割れた『鏡』だった。周囲にざわめきがおこる。
「これは一体……。不完全な形とはいえ、『天の鏡』が割れるなど……」
「何がおこったんだ?」
 リジェは問われるままにラーフィスとケーティアという、謎の二人組との間に起
こった事をすっかり話した。二人が自らを敵だと言ったこと、無理したせいで『鏡』
が割れてしまったこと。そして元に戻す方法がないか聞くために帰ってきたこと。
 その場にいる全員が動揺を隠し切れずにいた。リジェの口から語られるのは衝撃
の事実ばかりであった。話が終わる頃にはしんと静まり返って誰も目を合わせよう
としない。
「それで……どうかな。これ、元に戻せるかな」
 リジェがおずおずと尋ねた。『鏡』が壊れていてはどうして良いものやら解らな
い。あの時には他に方法が浮かばなかったとは言え、責任を感じずにはいられない。
 リジェの父は眉間にしわを寄せて『鏡』を見つめた。
「正直なところ、見当もつかないな。壊れたらどうなるのかも、どうすれば直るの
かも」
「……そんな。……どうしよう……」
 落ち込むリジェの肩を叩く手があった。
「しっかりしなさい、リジェ。まだ駄目って決まった訳じゃないのよ」
「母さん」
「確かにこれは大切な精霊からの贈物だけど、でもこれは約束の証でしかないのよ。
に大事なのは貴方の気持ち。その証拠にその不完全な『鏡』で精霊を呼んだのでし
ょう?」
「そうだぞ。可能性は十分あるんだ。まず『鏡』を完全な形にするんだ。その時ま
でにどうにもならないのなら、それからまた考えればいい」
 両親の励ましにリジェは顔を上げた。暗くなっていてもどうにもならない。まだ
まだやる事は残っている。後悔はもっと後ですればいい。
「そうだよね……。諦めるには早すぎるよね。ありがとう、父さん、母さん」
「その意気よ、頑張ってね」
「うん!」

 その頃、ラサは自分の服やマントと借り物の毛布を使って、硬い岩の上で出来る
だけ快適な寝床を作ろうと悪戦苦闘していた。傍らでアルヴィナは所在なさげに座
っている。こんな洞窟の中でどうすれば寝られるのか、解らないのかもしれない。
あるいは先刻までの会話のことで悩んでいるのか。
「ねぇ、アーヴィ」
 見かねて、ラサが毛布を広げながら話しかけた。
「私ね、捨てられた子供なの」
「…………えっ?」
「正確には売り飛ばされたんだけど。よくある話ね。でも、そこで私は私にとって
本当の家族以上の人に会えたわ。すごく優しい人だった」
「何を……」
 話が見えなくてアルヴィナは戸惑った。それにかまわずラサは話し続ける。
「でもね、その人……死んじゃった」
 口にした途端、悲しみが蘇ってきた。手にしていた毛布をギュッと握りしめる。
だけど涙は見せない。感傷に浸るためにこの話をしているんじゃない。
「素敵な笛の音を奏でる、優しくて、本当にいい人だったのに、理不尽な死に方し
てね。毎日お祈りしたの。どうしてなのって」
「………………」
「一生懸命祈ったけど、答えは返ってこなかった。何一つ。だから私……貴女に言
うのはちょっと怖いわね、そんな理不尽な神様ならいらないって思った。もう信じ
ないって思った」
「それはっ……!」
 アルヴィナが何か言おうと口を開いた。が、突然振り向いたラサに勢いを削がれ
る。ラサは小さく笑って目を合わせた。
「だけど、さ。今日アーヴィがアルナの火傷治したのを見て、こんな神様ならいて
もいいかもしれないって、少し思った」
「ラサさん……」
「私はリジェについていくって決めたから、私の信念曲げるわけにはいかないけど。
それでも私達が仲良くなることは出来ると思わない? ご大層な大義名分はおいと
いて、もっと自分の事とか話し合いましょうよ。解り合うってそういうことでしょ
う? そしたら、きっと友達になれるわ、私達」
「……とも、だち……?」
 アルヴィナが目を見開いた。
「そ、友達」
「……素敵な響きですわね」
 しみじみとした言い方に、ラサは首を傾げた。恐る恐る尋ねる。
「もしかして、今まで友達いなかった……とか」
「年齢の近い者が周りにおりませんでしたし、誰もそんな風には……」
 遠回しな肯定にラサが頭をかきむしる。
「信じられない。駄目よ、そんなんじゃ!」
「ラサ、さん……?」
「解ったわ。今からもう私達は友達! 実はさっきからそうだったけど、金輪際、
貴女にはもう敬語は使わない。アーヴィも私のことは呼び捨てにすること!」
 ビシィッとラサが人差し指を突き立てて宣言した。大まじめである。こうなると
もう誰にも止められない。
「ついでにお互いの親睦を深めるためにも、これから一緒に旅しましょう! どー
せアーヴィ一人ここにいたって仕方ないし、私達はすぐ再出発するだろうし」
「え、でも、あの……勝手にそんなこと決めても……」
「大丈夫!! リジェはきっと反対しないし、ヤージュがぶつぶつ文句言うかもしれ
ないけど気にしない! いざとなったらアルナを味方につけるから問題なし。……
ってなとこで一応寝床も完成したし、今日はゆっくり休むべし! じゃっ、おやす
み〜♪」
「……おやすみなさいませ……」
 怒濤の勢いでまくしたてられ、呆然とアルヴィナは呟いた。しばらくそのまま毛
布を被ったラサを見つめていたが、ふいに小さく声を立てて笑った。こんな人間、
初めてだ。明るくて、素直で、強引で。
(そうですわね。こんな人と行動を共にするのもいいかもしれませんわ)
 自覚こそしていなかったが、この時アルヴィナはアネサリアとしてではなく、一
人の少女として、そう思った。