光のきざはし - 5章 XREA.COM

 「おっはよーっ!」
 祭りが終わってから二日後の朝、太陽は見えているものの空には雲が多かった。
雨の季節が近付いているせいだろう。作物が育つためには大切な潤いの季節だが、
旅人にとっては憂欝かもしれない。しかしそんな空模様とは裏腹に町外れの小さな
宿屋からにぎやかな声が響き渡った。威勢よくラサが食堂に駆け込んでくる。いつ
にも増して機嫌が良さそうだ。
「朝から騒がしい奴だな」
「あんたは朝から不機嫌そうね」
「おはよう、ラサ。座ったら?」
 ちょうど並べられたばかりの朝食が湯気をたてている。冷めないうちにとリジェ
が声をかけた。いつもならすぐに「そうね。いただきまーす」となるのだが、今日
に限ってなぜかラサは座ろうとしなかった。
「? どうかしたの?」
「いらねぇなら食っちまうぞ」
「いるわよ! ただ……、ほら、何か気付かない?」
 ちょっと拗ねたような顔でラサが言った。そう言われてもなぁー、リジェとヤー
ジュは怪訝そうな顔で彼女を見つめる。と、不意にリジェの脳裏を過去の思い出が
よぎった。何だか昔、似たようなことがあった気がする。えーっと……?
(あ、思い出した)
「ラサ、それ新しい服だね。とっても似合ってるよ」
「ホントッ? ありがとー。うん、ほら踊りの商品で貰った更紗を仕立ててもらっ
た服なの。綺麗な布でしょ」
 リジェに気付いてもらえたらそれで満足したらしく、ラサはいそいそと席につい
た。対称的にヤージュは疲れきった顔で食卓に頭をぶつけている。
「アホくさぁ〜……」
「あら、そんな事ないわよ」
「そうだよ、ヤージュ」
 まったく心外だという顔でリジェとラサが責めたてた。二対一になってヤージュ
がムッとする。大体、ヤージュも女は(やかましいのが多いので)苦手なほうだが、
リジェなんかずいぶん奥手なくせにどうしてそんな女を喜ばせるコツを掴んでいる
のだ。
「えー? だって『女の新しい服と髪形褒めるは男の義務』って諺が……」
「ないっ!!」
 今度はラサとヤージュが息を合わせた。リジェがあれっという顔になる。
「………………」
「………………」
「おまえ、それ、いつ何処で誰に聞いたんだ?」
「えっと……、八年くらい前にヤージュの家でア……」
「待った!!」
 『誰に』を言いかけた途端にヤージュがラサにも負けない大声で台詞を遮った。
目をパチクリさせているリジェを尻目にヤージュは大きなため息をついた。
「解った、もぉいい。……あいつはまたいい加減なことをリジェに吹き込みやがっ
て」
「『あいつ』だなんて、仮にも自分の……」
「言・う・な!」
「何よ、そんなに知られたくないの?」
 一人だけ話題についていけなかったラサが口を尖らせた。それに対し、ヤージュ
も憮然として答える。
「オレが思い出したくないだけだ」
「あ、そう。でもまあ、諺じゃあないけど新しい服と髪形を褒めてもらえるのって
嬉しいものよ。あんたも覚えといたら?」
「結構」
 不機嫌に答えながらヤージュは無発酵パン(チャパティ)をちぎって口に放り込
んだ。それ以上同じ話題で喋り続けるのも不毛に思えたのでラサも食事にとりかか
ることにした。
 リジェも「いただきます」と声を上げる。チャパティにチャナ豆のスープと野菜
の香草煮、それからチャイという、しばらくは食べられないだろう豪華な朝食に三
人はしばし食べることだけに夢中になった。
「ところでさぁ……あ、これおいしい。おかわりしよっかなー……じゃなくて」
 あらかた食べ終わった頃になってラサが口を開いた。
「ん? 何?」
「これからどうするの?」
 今日この町を発つ予定だけは聞いていたが、それで何処へ行って何をするのか、
具体的に聞いていない。ごく当然の質問である。しかしリジェは答えにつまり、う
ーんとうなった。捜し物はまだ残っている。やるべきことはある。行くべき場所も
……見当はついている。ただ、その前に言っておかねばならないことがあった。そ
れがなかなか言い出せないでいる。
「ラサは前に北に行くつもりだって言ってたよね。どこへ行きたいの?」
「え? あ、私の行きたい場所? 『生命の川』のできるだけ源に近い所へ行きた
いの」
「と言う事はヴァヒマ山脈か」
 何故とは聞かずにリジェはそれだけ答えた。今回に限っては心遣いと言うよりも
そこまで気が回らなかった様子だ。ヴァヒマ山脈ならこれからの目的地と重なる。
後で話そうと思っていることが拒絶されたとしても、もうしばらくは一緒に旅がで
きるだろう。それに一緒にいられるのならもう少し後で話してもいいかもしれない。
(だって、危険な目に遭わせるかもしれないのに、簡単には言えないよ)
「リジェ? どうしたの?」
「あ、ううん。何でもない。僕達のいきたい場所とちょうど一緒だなって思っただ
け」
「そうなの? 良かった」
 これ以上はついてくるなという話になったらどうしようと微かに思ったラサだっ
たので、安心してにこっと笑うと、チャイを飲みながら雑談に熱中し始めた。

 宿屋の外の木の上に、二つの影が寄り添うように立っていた。高みから窓を見下
ろしているその視線の先には、二人の少年と一人の少女。開け放たれた窓から少女
の明るい話し声が聞こえてくる。
「ずいぶんと威勢のいいお嬢さんね」
 影の片方が笑みを含んだ声でもう一方の影に語りかけた。しかし声をかけられた
ほうは窓を見下ろしたまま何も言わない。
「…………どうしたの?」
「いや、なんでもない……」
 耳元で声をかけられて我に返った男が先ほどまで見ていたものに気付いて、女は
そっと背中から男を抱きしめた。
「あの黒髪のぼうやね。すぐ解るわ、そっくりだもの。……懐かしい?」
「まさか」
 女の言葉を苦笑と共に一蹴して、男は普段の冷静さを取り戻した。
「それにしても……地界の力を感じて追ってきてみれば、すでに三人が揃っている
とはな」
「そうね、まだ目覚めてはいないようだけど、水の力を感じるもの。きっとあのお
嬢さんね」

「あらヤージュ、チャイ飲まないの?」
「こんなもの飲めるかっ。シナモンは入れ過ぎて粉っぽいし生姜は入ってないし、
何より砂糖は足りないし牛乳は薄くてコクがない! オレは断固としてこんなのは
認めない!」
「…………は?」
「ヤージュってチャイにはうるさいんだよねー。ハハ…………!?」
 笑い飛ばそうとしたリジェの背筋を寒いものが走った。意思とは無関係に顔が青
ざめる。悪寒の正体を確かめようと、反射的に立ち上がって辺りを見渡した。が、
視界に入る限りでは何も変わったことは見られない。

「あらあら、勘の良いぼうやね」
「ならばせっかくだ、挨拶していくか」
 余裕ありげな笑みをのこして二つの影はどこへともなく消え去った。

「リジェ……どうしたの?」
「う、うん。なんでも……ない」
 何も起こる気配はない。気のせいだったのだろうか。そんな筈はないと思いつつ、
とりあえずは放っておくしかなさそうだ。嫌な感じだけが胸に残る。
「何かあったならちゃんと言えよ。顔色悪いぞ」
「ごめん、大丈夫。本当になんでもないよ。それよりそろそろ出発しよう」
「ん、そうだな」
 さっきの嫌な感じが何だか解らないが、これ以上この場に止まっている気がおき
なかった。とにかく外に出たかったのかもしれない。三人は荷物をまとめると宿を
出て、街道を歩き始めた。
 町を出ると道には誰一人歩いていなかった。ついこの間までの祭りの喧騒を思う
と嘘のような静けさだ。なんとなく誰も口を開かないまま歩き続け、気がつくと昼
過ぎになっていた。ふと、リジェが足を止める。
「あ……?」
 肩を小さく震わせる。さっきの悪寒が再び襲ってきた。ラサとヤージュも立ち止
まり、心配そうに振り返る。どうしたのか、声をかけようとした瞬間、リジェが目
を見開いた。その視線を追って二人も向き直り、そちらを見る。そこにはいつの間
に現れたのか、黒を基調とした服に身を包んだ男と女が立っていた。
「てめえら……誰だ……!?」
 ヤージュが一歩踏み出して眼前の二人組を睨み付けた。明らかに普通の人間では
ない。肌も髪も透けるように薄い色を持ち、目だけが金色の、鋭く冷たい輝きを放
っていた。
「いきなり『誰だ』とは礼儀を欠いた坊やね」
「そういうな。この少年にしてみれば最もな質問だ」
 瞳だけではなく、声までもが冷たかった。優しさや暖かみといったものが、何処
かへ置き去られたような声だとリジェは思った。悪寒の原因は彼等に違いなかった。
しかし、彼等が何者なのか、何故こんなに嫌な感じがするのかは皆目見当がつかな
い。
 混乱と不安に満ちた視線を男は悠然と受け止めた。
「お初にお目にかかる、精霊に守られたる子等よ。……と言ってもまだ一人足りな
いようだが。我が名はラーフィス、まあ、敵だと思ってくれて構わないよ」
「私はケーティア。この間、地界の力を使ったのは貴方ね。おかげでこうして挨拶
に来られて嬉しいわ。お礼を言わなくてはね」
「くっ!」
 ヤージュは苦々しい表情で唇を噛んだ。全身を緊張させる。その後ろで、ラサが
混乱の極致に陥っていた。唐突に現れた訳の解らない二人組が訳の解らない話をし
ている。
(せいれい……?)
 聞いたことのない言葉だ。一体、何の話をしているのか。何が起ころうとしてい
るのか。思考を遮ったのは隣にいたリジェの叫び声だった。
「どうして……っ!? 貴方達は……!」
「自分がすべてを知ってると思わないことね、ルナ家の坊や」
「!?」
 ケーティアと名乗った女の言葉にリジェは目をみはった。彼女は今、はっきりと
『ルナ家』と口にした。相手が自分の家を知っている上、リジェがその姓を持って
いることも言い当てられて、驚かずにはいられなかった。そこへ男が諭すように言
葉を重ねる。
「おまえの知らない真実などいくらでもあるという事さ」
「では……ラーフィス、でしたね。貴方は何を知っているというのですか?」
 力の入らない体を奮い立たせてリジェが尋ねた。目の前にいる二人は解らないこ
とだらけだった。敵だと言われても、どうしていいのかすら解らない。
 しかし、もはや二人ともこれ以上の質問に答えるつもりはないようだった。ラー
フィスが薄く笑って口を開いた。
「そんな事よりこちらは自己紹介をしたのだ。そちらにも聞きたいね、……君達が
どれ程の力を持っているのか」
 声の響きが変わったのを感じて、ヤージュは腰を落とした。次に起こることに備
えて全神経を張り巡らせる。その後ろでふっとリジェがバランスを崩した。
「リジェ!?」
「何、どうしたの!?」
「ごめん……、今、急に……」
 隣にいたラサに支えられ、リジェは何とか体勢を立て直した。その顔は真っ青だ。
ヤージュはぎりりと眉をつりあげて正面を見据えた。
「てめぇ、何しやがった!」
 ケーティアがわずかに目を見開いた。
「驚いた。並じゃないとは思っていたけど、本当にずいぶんと感覚が良いのね」
「そうとも、まだ何もしていない。……これからだ」
 言葉と同時にラーフィスの右手が開かれた。そこに小さな球体が現れる。何色と
もつかず、何でできているとも言えない。見つめていると眩暈を起こしそうだった。
球体は宙に浮いたまま静止している。張り詰めた空気の中、ラーフィスが言った。
「すべてのものよ、源初の姿に」
 刹那、球体が破裂した。ケーティアが言う。
「解放されよ」
 『それ』は大気を震わせながら広がりだした。水も空気も大地もなく、ただすべ
てを飲み込もうとするかのように、じわじわと広がっていく。
「何、これ……」
「そんな、馬鹿な」
 ラサが引きつった声を上げ、リジェは青い顔のまま呆然する。そしてヤージュは
どうしていいか解らず、舌打ちした。物理的な攻撃をされたのなら、どうとでもし
てやろうと思っていたのに。それでも、このままにしておくわけにはいかない。こ
れをどうにかできるのは……!
「ヤージュ!」
 凛とした声が響いた。振り返るとリジェが力強い瞳で見つめていた。
「地界の精霊を呼んで」
「だけどそれだけじゃ足りないだろ!」
「いいから! 僕が何とかする。しないと駄目なんだ」
「……解った。頼むぞ!」
 小さくうなずくとヤージュは地面に手をついて言葉を紡ぎ出した。それを最後ま
で見る間もなく、リジェは隣へ向き直る。
「ラサ!」
「え、な、何?」
「これ持って!」
 戸惑うラサの手に押し付けられたのは以前手に入れた鍵だった。さらに戸惑うラ
サに説明もせずにリジェは言葉を続ける。そうしてる間にも相手はこちらに向かっ
て広がっている。
「それ持って歌って。楽器でも良い。できたらこの前の水の歌!」
「えぇ、歌!?」
「そう、早く!!」
 こんな状況で無駄なことをさせるわけがない。リジェの意図は解らなかったが、
とにかくそう判断してラサは大きく息を吸い込んだ。
 そしてリジェ自身は腰に下げていた金属製のメダルを手にした。一見ただの装飾
品のようだったが二枚重ねになっていたその内側の金属板をひっくりかえすと、そ
れは磨きあげられた鏡だった。自分の顔の前で、相手を写すように構える。
 ヤージュとラサの声が響く中。呼吸を整えると、リジェは空間に広がりつつある
『もの』を見据えて、詠唱を始めた。
「我は、天の輝きのかけら持つ者。あまねく精霊、秩序の守り手よ、ここへ来たれ。
天はその輝きもて全てを明らかにせよ。流れを司るものは秩序なき澱みを遥かに流
し去れ。空界に在るものは歪みを癒せ。大地は全てを在るべき姿に束縛せよ」
 詠唱が続くにつれて、光がリジェの周りに集まってきた。鏡に反射した光が空間
を蝕んでいる奇妙な『もの』を照らす。空気が濃くなったように感じ、さっきまで
に比べれば格段に呼吸がしやすくなった。
「天則に従いて汝等の配下を支配せしめよ。天則に従いて万物は有と無を区別せよ。
創造者の総意なくして天則は変わることなし。精霊達は疾(と)く配下を天則に従
わせよ!」
 鏡を掲げ、リジェが詠唱を終えた瞬間、光が飛散した。それは目の前に広がって
いた異質な空間を取り巻いた。光が強まる。だがリジェは目を逸らさない。ラサと
ヤージュも祈るような視線で光を見ていた。
 次第に光はその輪を狭め、輝きを増していった。全てを飲み込んでいた奇妙な空
間は、じりじりと小さくなっていく。…………やがて、世界は元通りになった。
 ようやくリジェは肩の力を抜いた。「やったな」とヤージュが口の端を上げる。
と。
『ちゃんと目覚めてもいないのに、さすがといったところかしら?』
 ケーティアの声が辺りに響いた。現れたとき同様、いつの間にかその姿は見えな
い。再び緊張が周囲を包む。そんな三人の様子を楽しむかのようにラーフィスの声
がした。
『おまえ達の力、確かに見せてもらった。なかなかのものだったな』
『でも今日は挨拶だからここまでね』
『近いうちにまた会おう、……ルティオ』
「え……!?」
 囁かれた最後の一言に、リジェが声をもらす。同時に風がうなった。吹き荒ぶ風
のせいで、ラサとヤージュの耳に、声は届かなかったようだ。そして、二人の気配
は消えた。
「……行った、のか……?」
「そうみたい」
 ふう、と息をついてリジェが答えた。鏡を握ったままの手で汗を拭う。と、呆然
と立ち尽くすラサが目に入った。
「ラサ、あの……ね」
「なん……なの?」
 リジェはともかく何か言おうとしたが、ラサの呟きは容赦なくリジェの言葉を封
じた。そしてその一言をきっかけに、ラサは感情と言葉を取り戻した。
「何なのよ、さっきの二人は! 何の話をしてたの、リジェ達は知ってるの!? 一
体今何してたの、さっきの二人も……リジェも!!」
 正面からラサがまくしたてた。いま起こった事が何かも理解できず、ただ混乱し
て、腹が立っていた。少しくらい隠し事があっても仕方ないと思う。自分だって何
もかもを話した訳でもない。けれど、ここまで一緒に旅してきたのに、二人は何も
話してくれてなかったのだ。ラサは瞳が潤んでくるのを止められなかった。
 その瞳にまっすぐ見つめられ、リジェはいたたまれなくなって俯いた。何一つ話
す気がないなら、ヤージュが危惧したように、初めから共に旅をするべきではなか
ったのだ。共に行動する時点で自分が何をしようとしているのか、話す覚悟をしな
くてはいけなかった。なのに信じてもらえないかもしれないのが怖くて、黙ってい
た。危険な目に遭わせたくない、なんて言葉で自分に言い聞かせて、ごまかして。
「ごめんね。本当は、もっと早く、言っておかないといけなかった……」
 一語ずつかみしめるように、リジェは謝罪した。しかし弱々しい声は、だんだん
と小さく、ゆっくりになり、ついに聞こえなくなってしまった。その手の内で、小
さな鏡が高く短い音をたてる。
(……あ……)
「ちょっ、リジェ!?」
「おい!」
(やっぱり、少し、無茶だったかなぁ……?)
 薄れる意識の中で、のんびりとそんな事を考えた。リジェの体は割れた鏡を手に
したまま、ゆっくりと崩れ落ちていった。