光のきざはし - 2章 XREA.COM

 ザザ……ン……。ザァー……。
 青いうねりが岸辺に押し寄せて白い泡が生まれる。小石混じりの砂にしみこんだ
かと思うと、水は砂を巻き込みながら引いていく。その水が戻りきらないうちにま
た水が覆うように押し寄せる。
 丘を越えて、金色の髪を揺らしながらラサが一直線に駆けてきた。その後ろを二
人の少年が歩いている。丘の向こうから海が見えると解った途端にラサが走り出し
たのである。ラサはそのまま押しては引く水のやり取りに足を浸した。
「これが……波」
 足の間をすりぬけていく砂がくすぐったい。その感触を楽しみながら足元を眺め
ていたが、ふと鼻を鳴らすと深呼吸した。
「これが潮の香りかぁ」
 さらに遠くのほうを見やって呟く。
「それであれが水平線ね」
 一つ一つ確認してうなずくとラサは両手を大きく拡げた。すごく楽しそうに瞳を
輝かせている。
「これが海なのね。海にきたんだわ、私!」
 叫ぶラサの背後にようやくリジェ達が到着した。ヤージュはそのはしゃぎように
あきれながら、これはしばらく休憩になりそうだとあきらめ顔で腰を下ろす。それ
は正しい判断だ。興奮しているラサはもう海しか見えていなかった。
「海ってなんか気持ちいいよね」
 ヤージュが腰を下ろしたのを見て隣に座りながらリジェが言った。それを聞いて
ラサは勢いよく振り返った。
「ほんと、すっごいわよ。こんな広い景色初めてだわ! 木はおろか地面すらない
なんて今まで想像するのも難しかったんだからっ」
 喜びがあふれまくってる口調だ。実際、海は誰の心にも響く何かがある。リジェ
も初めて海を見たときは何故か感動したものだ。『生命の還る所』だからだろうか。
この世界を貫く大河が行き着く場所。大河ガムナワティは伝説によると全ての生命
を潤すために神が天から降ろした川である。
啓典に記されているのではなく民間伝承なので真偽のほどは定かではないが、こ
の水系が多大な恵みをもたらしているのは事実である。それ程の大河であるからい
つしかそれは聖河と呼ばれ、『全ての生命を育む川』から生命そのものを表す『生
命の川』へと認識は変わっていった。よってこの川が生まれる場所、北の果てにあ
る、世界で最も高き山脈は生命の始源の地であり、川の終わり、すなわち海は生命
の尽きるところを表すといわれている。
 だけど、とリジェは思う。海にも生物はいる。海は全くの死ではない。水がいく
ら流れ込んでも海は広がらないし、水源では水が尽きることはない。どういう形で
かは不明だが水は、命は終わりから始まりへと回帰しているのかもしれない。
「うわー、これって貝殻よね。不思議な色」
 ラサの明るい声でリジェは意識を現実に引き戻した。高く掲げられた薄い貝殻が
日に透けて七色に輝いている。ラサはしばらくそれを見つめていたが、期待に満ち
た顔で再び海面に目を落とした。
「もっとあるかしら」
「……おい、もういいだろ」
 貝殻拾いに熱中しだしたラサにヤージュが声をかけた。そろそろ苛立ってきたら
しい。が、興奮しているラサはちっとも気付いていない。振り返りもせずに言った。
「えー、あと少し。いいでしょ? お願い」
「……おまえさっきからずっと水の中ではしゃいでるけどよ、この辺にはニルトが
出るぞ」
「ニルト? 何それ」
 ようやく振り返ったラサの目に仏頂面したヤージュが映った。隣ではリジェが
「あれ?」という顔を見せている。それは無視してヤージュが投げるように言った。
「毒虫」
「きゃあぁっ!」
 聞くが早いか、ラサは大慌てで浜辺に上がってきた。しかしリジェはまだ納得い
かない表情で首を傾げた。
「……ヤージュ、ニルトって夜行性じゃなかったっけ……?」
「正解、良く覚えてたな」
 あう……。
「あぁーっ、騙したわねぇー!?」
 本気で怖がってしまったラサが悔しそうに詰め寄った。意に介さずにヤージュは
ひょいと立ち上がって砂を払う。
「おまえがいつまでも遊びほうけてるからだろ。それに嘘は言ってないぜ」
「うっわー、嫌な奴」
「おまえが勝手に勘違いしただけだろ」
 こういう時のヤージュって何か楽しそうに見えるのは気のせいだろうか。リジェ
は大きく溜め息をついた。
「あのさあ……」
「えーい、黙りなさい!!」
 本人は意識してないのだろうが、会話に割り込もうとしたリジェの言葉はあっさ
りとラサの叫び声に遮られた。人差し指がびしぃっとヤージュに向けられている。
「嘘でなくとも今の言動は明らかに私を騙そうとしてたわ。正直に認めなさい」
「んな些細なこと気にするなよ」
「なあぁんですってぇー」
「二人とも、もうやめてよー」
 他にどう言えばいいか解らずリジェが情けない声を上げた。
「ねえラサ、ヤージュの悪さなんていちいち怒ってたら疲れちゃうよ。小さい頃か
らずっとこの調子なんだから」
「『ずっと』……よく人間不信にならなかったわね」
「はあ」
 不意に声の調子が変わったので戸惑いながらリジェがはっきりしない返事をする
と、ラサは不満そうな顔をした。違う違う、と手を横に振る。
「駄目よ。ここで『我ながら感心するよ』くらいのことが言えなくっちゃ、こうい
う奴には対抗できないわよ」
 いや、対抗しなくてもいいんですけど、と思いはするが口にするとまたどやされ
そうなので言いはしない。代わりに「なんで対抗するのさ」と聞いてみる。ラサは
力いっぱい答えてくれた。
「楽しいからよ」
 きっぱり。思わず訳が解らなくても納得してしまいそうなほどにはっきり断定し
た。
「だって言われっぱなしより言い返せたほうが楽しいでしょう?」
「それについて異論はないが、さらに相手を理屈で論破するのはもっと面白いぜ」
「そうね」
 唐突に口を挟まれたにもかかわらずラサは当然のごとくヤージュに答えた。そし
て二人で意味ありげな含み笑いをして視線を交わす。怖いよう。一体何なんだ。さ
っきの口喧嘩はどこまでが本気だったんだ。ちょっぴり仲間外れな気がして寂しい
リジェだった。
「で、もういいの?」
 どことなく疲れた口調で確認されて、ラサは仕方ないわねーと肩をすくめた。
「とりあえず暫くはどっちに行っても海沿いに歩くみたいだし、今は我慢してあげ
る」
「偉そうだな、てめぇ」
「それでどっちに行くの?」
 思いっきりヤージュを無視してラサは振り返った。そう言えば、どこへ行くんだ
ろう。今更ながらそう思い、リジェの黒い瞳を覗き込んで尋ねてみた。
「私、二人について行くって決めたけど、目的地は知らないのよね。何のために旅
をしてどこへ行くつもりなの?」
「何にも解らないのについてくるんだから凄いよね」
 リジェはクスクスと笑った。それに対してラサが心外な面持ちで答えた。
「あら、何にもって事はないわ。リジェが優しい人だっていうのは解ったもの。旅
の仲間になる口実なんてそれで十分よ」
「単純」
「うるさいわねー、いいのよ単純でも。それよりこれからどこへ行くのよ」
 ラサは矛先をヤージュに向けて同じ質問を繰り返した。それを見て話をそらして
しまったとリジェが問いに答えた。
「最終的にはアネサルスに行くことになるんだろうけどね」
「聖都へ? 完全に逆方向じゃない」
 一行は森を南へ抜けてきたのである。王都であり世界最大の都市であるアネサル
スはむしろリジェ達が森に入ってきた道の方向にある。こんな、大陸の南の果てま
で来る意味がない。首をひねるラサにリジェが笑った。
「その前によらないといけない場所があるんだ。探し物もあるし」
「探し物って?」
「それは秘密」
 にっこりと笑いながらもきっぱりとリジェはそれ以上の追及を拒絶した。本当は
ちゃんと言えるといいんだけど。今はまだ……。
「ふーん」
「とりあえず今からはあそこへ行くんだ」
 少し不満そうなラサをなだめようとリジェが沖を指した。その先には小さな島が
見える。
「あそこ?」
「あの島に行くのか? 船がいるな……」
 ラサの隣でヤージュが距離でも測るかのように島を見つめながら呟いた。その台
詞を聞いて船という響きに胸を高鳴らせながらもラサは疑問を投げかけた。
「なんかその言い方だと行き先知らなかったみたいに聞こえるんだけど」
 そう言われてリジェとヤージュは顔を見合わせた。それからヤージュは肩を竦め
て答える。
「知らねーもん、オレ」
「だって二人で旅してきたんでしょ? なんで知らないのよ」
「リジェにしか解らないからだよ」
「……どういう事?」
「さあね」
 それ以上答える気はないらしく、ヤージュは波打ち際を歩き出した。ラサが答え
を求めて振り返るが、リジェとしてもきちんと説明できないので笑うしかない。あ
そこへ行けばいい気がする、なんて言ったら呆れられるだろうか。
「おい、船探しに行くぞ。早くしろ、それとも泳いでいくか?」
「泳ぐってどうするの!?」
「あ、ごめん。いま行く」
 小走りでヤージュのいる場所に追い付くと、リジェは少し先の流木に目が止まっ
た。下の方は波を被っている流木の陰に、何かが見えた。不審に思って目を凝らす。
「リジェ?」
「どうかしたの?」
「……あれ、人かもしれない」
「あ、ちょっと、リジェ!?」
 言い終えたときにはもう走り出していた。慌ててラサも追いかける。人が倒れて
いるのなら放っておけない。一直線に流木のところへ走ってリジェは反対側を覗き
こんだ。黒い瞳に小さな女の子が映る。
「大丈夫!?」
 どう見ても意識はなさそうな女の子に、それでも声をかけながらリジェは側に膝
をついた。せいぜい四、五歳だろうか。呼吸は荒く、日に焼けた肌は汗でぐっしょ
りしている。触ってみるとすごい熱だ。追いかけてきたラサが様子を見るなり布を
濡らして持ってきてくれた。
「ありがとう」
(でも海水だから後でベタベタするかな)
 一瞬考えて、リジェは乾いた布で顔の汗を拭いてやってから受け取った布を女の
子の額に当てた。気がつくといつの間にかヤージュもやって来て上から様子を覗き
込んでいた。
「やっぱただ寝てるだけじゃないか。……ったく、何でこんなちっこいのが一人で
こんなとこにいるんだよ」
「ヤージュ……面倒だって言うかもしれないけどこの子病人みたいだし……」
 いくら余計な事はしたがらない性格とはいえ、まさか放っておけとは言わないだ
ろうと思いつつ、リジェはおずおずときりだした。文句の一つくらいは聞くつもり
だ。しかし返ってきた言葉は予想外なものだった。
「いいからこんな日の当たる場所にいるんじゃねーよ。早く日陰に連れて行け。薬
はあるのか?」
 多少なりとも不満を訴えられると思っていたリジェは驚き戸惑いながら答えた。
「あ、えーと……熱冷ましかぁ、もうないかも……。ラサ持ってない?」
「あいにくそんなものが準備できる環境には住んでなかったの」
 ヤージュは二人の返事に短く息を吐いた。
「じゃとにかく日陰にいってろ。オレは向こうを見てくるから。村があるなりこい
つの知り合いがいるなりするだろ。見つかったら移動するから荷物持ってきとけよ」
「う、うん。解った……」
 早々に背中を向けたヤージュを見送りながらリジェは呆然と答えた。何にせよ言
われたことは最もなので、女の子をそっと抱き上げて日陰に移動した。それ以上は
どう対処すればいいのか解らず様子を見ているしかなかった。そうしているとさっ
きのヤージュの台詞を思い出してリジェはラサと二人して首を傾げた。見つけた果
物をバナナのつもりでかじったら林檎の味がしたような、変な感じ。
「何なの、私の時とはかなり差があるけど」
 ラサが唸るように呟いた。リジェも隣で何度もうなずく。
「そうだねぇ、いつも一つや二つ文句をつけるのに、率先してやられちゃったね」
 別に悪いことでもないし、元から結果は同じだった気もするが、やっぱり変な感
じだ。この女の子を見るまではいつもと変わらなかったと思うけど……。うーん、
待てよ?
「あぁ! そっかそっか、なーんだ」
「? 何? 一人で納得してないで解るようにいってよ」
 小さく笑い出したリジェの隣でラサが拗ねたように言った。おかしそうにそれに
答える。
「うん、あのね、今のヤージュは『頼もしくって大好きなお兄ちゃん』なんだ」
「…………はあ?」
 リジェはまだクスクス笑っている。
「ヤージュってね、ああ見えても……あてっ」
「なに呑気にしゃべってんだよ。行くぞ」
 軽いげんこつと共にヤージュが背後から促した。なかなか良いタイミングである。
そんなに聞かれたくなかったのだろうか。リジェはもう一度小さく笑うとラサに耳
打ちした。
「いつか僕達の生まれたところへ来てみてよ。そしたら解るからさ」
「それは是非とも連れていってもらいたいわ。楽しみにしてるわね」
 小声で話してる二人を見て、ヤージュが口を開いたが、パッとリジェは真顔にな
って彼の方を向いた。
「それでどうだったの?」
「ああ、ここからすぐのとこに漁村らしいのがあった。多分そこの子供だろう」
「じゃあ僕がこの子抱えていくね」
 言いながらリジェが女の子を抱えると、腕に熱が伝わってきた。一体どうしたら
こんな高い熱がでるのかと思うほどだ。早くちゃんとした場所で寝かせてあげたい。
リジェは自然と早足になった。
 ヤージュの言った通り村はすぐ近くにあった。手近な家の前でラサが叫ぶ。
「すみませーん、誰かいませんかぁー!?」
 …………しぃーん……。
「すみませーん!」
 もう一度叫ぶが返事はない。留守のようだ。どうする? とラサが振り返った。
とにかく他の家にあたるしかないだろう。ヤージュが苛々しながら言った。
「ここが駄目ならさっさと次に行け」
「ああ、うん」
 せきたてられて隣の家に歩き出した瞬間、背後から女の声がした。三人は一斉に
振り返る。するといかにも主婦っぽい女が走り寄って来た。
「ウルバス!」
 今腕の中にいる子供のことに違いない、きっとこの子の母親だ。女の様子を見な
がらリジェは確信した。案の定目の前まで来た女性は安堵の表情でリジェに話しか
けた。
「君達がこの子を見つけてくれたの?」
「はい。この子のお母さんですか?」
「そうさ。今はここの留守をあずかってるピリカ=ビリアってのさ。朝からずっと
探していたんだ。本当にありがとう」
 すっかり安心してしまった彼女にリジェは焦って言った。
「お礼なんかより、この子、具合が悪そうなんです」
「えっ……」
 顔を強張らせた彼女にリジェは子供を渡した。ピリカと名乗った母親は娘の顔を
心配そうに見た。ただ事ではない様子に慌てだす。
「どうしたのかねえ。昨日の晩までは何ともなかったのに。この子どこにいたんだ
い?」
「? 向こうの砂浜ですけど」
 リジェの答えに彼女の顔が青ざめた。何かまずい事でもあったのだろうか。
「この子、日が昇る前から見当たらなかった。漁に出る男達を見送った時にいなく
なって」
 何が言いたいのか解らずにラサはきょとんとしたが、リジェとヤージュはハッと
した。「日が昇る前」……。ついさっき話題にしたばかりだ。
「ニルト……ですか?」
「えっ、ニルトってヤージュがいってた毒虫!?」
 ラサが叫ぶのと同時にピリカがため息をついた。娘の足に虫に刺された跡を見つ
けてしまったのだ。そこだけ特に熱が高い。ニルトに刺されたに違いなかった。
「……とにかく横にしてやらなきゃ」
 ピリカはリジェ達が立ち去ろうとしていた家に入った。気になるので三人も後か
らついていった。家に入った途端に彼女はテキパキと動き出した。さすが母親だ。
娘を寝かせて汗を拭き、壺の中から薬草を取り出す。
「あ、何か手伝うことありませんか」
 のこのこ入ってきてただつっ立ってるだけでは悪い気がしてリジェが申し出た。
このままでは邪魔しにきたみたいだ。しかし勝手の解らない場所でもあるし、ひと
まずやれることはもう終わってしまうところだったのでリジェの申し出はやんわり
と断られた。
「ありがとう。でももう終わるから」
 幾つか手にしていた中から解熱作用のある薬草を煎じ飲ませてピリカは立ち上が
った。そして三人のほうを振り返った。
「本当に悪いんだけど君達、娘を、ウルバスをしばらく看ててくれないかい?」
「あなたは……?」
 こんなに苦しそうな娘の側にいなくても良いのだろうか。ラサが眉をひそめた。
「あたしは解毒剤になる薬草を採ってこなくちゃ」
「それなら僕達が行ってきます!」
 その位は出来るとリジェが叫んだ。しかしピリカは首を振った。
「危険な所なんだ。見ず知らずの子供に行かせるわけにはいかないよ」
「でも……!」
「良いからここにいておくれ。気持ちだけで十分だよ」
 なおも言い募ろうとするリジェを遮ってピリカは外へ向かった。その背後へ鋭い
声が投げかけられる。
「ざけんな、馬鹿野郎っ!」
「ヤージュ……」
 ずっと黙ってた彼が大声を出したので全員の注意がヤージュに向かった。つかつ
かとピリカの元へ歩み寄る。
「意識があれば子供にとって一番心細いだろうときにあんたがいなくてどうするん
だよ。こういうとき側にいるのが家族だろ? この子にとって『見ず知らずの子供』
なんかがついてても嬉しくないんだよ!」
 いつもだったらきっとこんな風に止めたりしない。何も言わずに見送るはずだ。
でも彼にとって譲れないものがあった。
「だからあんたはここに残ってろ。薬はオレ達が絶対にとってきてやる」
「でも……」
「大丈夫です、危険な目にくらいあったこと何回もあるんですから。場所教えてく
ださい」
 リジェが言い添えるとピリカはふっと力を抜いた。
「…………ありがとう。お願いするよ」
「任せてください」
「じゃ早く行きましょ」
 笑顔を浮かべたリジェに向かってラサが言った。ヤージュがそれを聞いて渋い顔
をする。
「おまえはついてくるなよ」
「どうして?」
「邪魔なんだよ」
「何ですって? 失礼ねー!」
 薬草のはえている場所を聞いていたリジェが、溜め息をつきながら振り返った。
どうしてヤージュは人を怒らせるような言い方しかできないんだろう。確かにラサ
はここに残していきたいとは思うけど。
「ラサ、危険な所に行くって解ってるのにラサを連れていきたくないんだ。ここに
いてピリカさんを手伝っててくれないかな」
 どれだけ危険なのかは知らないが、自分の身くらい守れる自信はある。でも他人
を守り切れるかどうかは解らない。とくにこれまで危険な目にあったことがないだ
ろうラサはどうしても守る対象としか思えない。
「平気だってば。運動神経は良いのよ、私。守ってもらおうとは思わない。一緒に
いたいだけなの。駄目だっていっても無駄よ、絶対について行くんだから」
 いつの間にか凄い決心してるんだね。ちょっと感心。ヤージュは呆れてる。
「時間がねえ! 勝手にしろっ」
 言うが早いかヤージュは外へ出ていった。行き先も聞いてないくせに。いや、確
かに急ぐんだけどさ。わたわた。
「ああ〜、待ってよヤージュ。……ラサ……うーん、もう、僕から離れないでよ!」
「うん!」
 うなずくのを確かめてからリジェは慌てて戸口へ向かった。しかし外へ出る寸前
で立ち止まり、ピリカに自信すら浮かんでいる笑みを見せた。
「すぐに帰ってきますから」
「気をつけて行くんだよ……!」
 鮮やかな笑顔を残してリジェが外へ出ていった。それを見送ってから、ピリカは
胸の前で手をくんだ。静かに祈りを捧げる。
「ウルバスもあの子達も貴方の元へ行くには早すぎます。神よ、どうか御加護を」

「んで? このまままっすぐでいいのか?」
 海岸から少し離れ、岩が目立ってきた場所を歩きながらヤージュが言った。その
まま進むと次第に上り坂になり、草に覆われた崖の上を歩くようになる。リジェは
聞いてきた道を思い出してうなずいた。言われた通りに進んでいる。これならもう
じき着くだろう。
「ほら、あの崖の上。おっきな木が一本だけ見えるでしょ。あの木に巻き付いてい
るアパマルガっていう蔓性植物の実を採ってくればいいんだって」
「なるほど。じゃさっさと行くとするか」
 速度を速めたヤージュを見てラサが呟いた。
「本当になんでそんなに積極的なの」
「あの村で船を借りたいんだから素通りするわけにはいかないだろ?」
「それは一理あるけど」
 言い訳にしか聞こえない。いつも何かにつけて面倒臭いと言っているのに。何が
そんなにヤージュを動かしているのやら。なんだか『家族』を力説してたし。
(家族…………ねえ……)
 幼い頃に舞踊団に売られてしまったラサにはあまり理解できない概念だった。血
のつながりという意味では、だが。
 ぽすっ。
「うきゃう!」
「どうしたのっ!?」
 変な叫びに何事かとリジェが振り返った。そう言えば危険な場所だと聞いていた
のだ。注意不足だった。さらによくよく考えるとどう危険なのか聞いてくるのを忘
れていた。
「ラサ?」
「……何やってんだ、おまえ……」
 しかし緊張して振り返ったのに、そこにあるのは間抜けな光景と恥ずかしそうな
ラサの顔だった。考えごとをしていたラサは要するに石につまずいてすっ転んだの
である。
「あは、あはははは……。さー行きましょうか」
 本当にこれで自分の身を守れるのか? ちょーっと不安になるリジェだった。
「とりあえず気をつけて歩いてね」
「うん、ごめん」
「アホらし。早く行くぞ」
 ため息をついたヤージュが先へ進もうと足を踏み出した瞬間。
 ガサッ。
(今度はなに?)
 風が強く吹いたわけでもなく、何かが草の中に隠れているのに違いなかった。身
構えて辺りを見渡す。すると研ぎ澄ました耳にもう一度草の揺れる音が聞こえた。
さっと音のしたほうに視線を滑らせる、と。
「かっわいー!」
 ラサが女の子然とした悲鳴を上げた。現れたのは一匹の兎だった。長い耳と小さ
な鼻をひくひくさせてこちらを見ている。リジェは安堵して緊張を解いた。ヤージ
ュの舌打ちが聞こえてくる。
「紛らわしいな、ったく。もうじき着くってわりには何も危なくないぞ?」
「えーっと、僕に言われても……」
 苛立ちと不可解さを込めた瞳で一瞥されて、つい言い訳を探してしまう。そんな
リジェを気にするでもなく、ヤージュはラサに振り返った。
「おい、兎なんかに構ってるなよ。急ぐんだからな!」
「あ、うん。行く行く」
 なんとか兎の気を引こうとしていたラサは自分達の目的を思いだし、慌てて振り
向きながら立ち上がった。その時だった。リジェは胸がざわつくのを感じた。不意
に膨れ上がった敵意。
 瞬間、リジェは風のように滑らかな動きでヤージュの脇を擦り抜けた。
「リジェ!?」
 どうしたのかとヤージュが振り返る。だがそれに答えている暇はない。
「ラサ、避けてっ」
「え?」
 いきなり叫ばれても何の事か解らず、ラサは瞬きしながらその場に立ち尽くした。
同じ事を繰り返すより早く、突っ込んできたリジェはそのまま勢いでラサを抱えて
横へ跳んだ。ほぼ同時に布の裂かれる音がした。草の上にラサを庇いながら受け身
を取るとリジェはすぐさま起き上がった。服の裾が破れているのが目に入る。自分
でも何が起こったのかはっきりとは理解してないが、とにかく間一髪だったようだ。
さっとラサがもといた方を見やる。
「何、あれ……」
 体を起こしたラサが呆然と呟いた。つい先程までそこにいたのは愛らしい兎だっ
たのに。兎に姿を似せていたそれは、今や鋭い爪と敵意をあらわにしていた。それ
が二人をめがけて飛びかかる!
 身構えたリジェの目の前に銀色の光が閃いた。赤い血を吹き出しながら兎だった
モノは地面に落ちた。
「ヤージュ!」
「ふーっ、危ねえなぁ。怪我ないか」
「ん、大丈夫。ラサは?」
「ありがとう、何ともないわ」
 立ち上がって埃を払いながらラサが答えた。それを聞いてようやくリジェは笑顔
を見せる。突然抱きかかえるような真似までしておいて怪我をさせたのでは洒落に
ならない。
(『抱きかかえる』……)
 うわあぁ……。いまさら思い出して気恥ずかしくなった。女の人なんてそうそう
触れるものではない。失礼にもあたるし特別そんな機会があるわけでもない。なの
にいきなりあんな事をしてしまって……怒ってはなさそうだけど。やっぱり恥ずか
しい。
「危険ってこのことだったのかしら」
 リジェの顔が少し赤いのには気付かずにラサが言った。一方でヤージュが、投げ
たナイフを拾い上げ、血を拭き取りながら何か考え込んでいた。気を取り直したリ
ジェと誰も答えてくれなくてつまらなかったラサが、何を考えているのかと訝しん
でいると不意にヤージュは大きな声を上げた。ナイフを腰の鞘に収め、くるりと振
り返る。
「そうだ!」
 何が「そうだ」なんだろう。
「どっかで見たことあると思ったんだよ。思い出した、こいつはピサカだ。普段は
兎に似ているがそれで油断を誘うんだ。本当はかなり獰猛な肉食獣だぜ」
「へえー、物知りね。それじゃやっぱりこれが危険な事だったのかな」
「まだ続きがあんだよ。こっからが問題だ。ピサカは普通単独で行動するが、繁殖
期のメスは例外でそれこそ兎の穴みたいな巣を作って集団で子育てするそうだ。つ
いでに言うと子育て中の母親ってのはどんな動物にしろ気がたってるんだよな」
「……もしかして今が繁殖期だったりする?」
「するんだな、これが」
 まいったなーとでもいうようにヤージュは肩を竦めた。そ、それは確かに危ない
かもしれない。あんなのがいっぱい出てきたら大変だ。外見に騙されることがなく
なったとしても、あの爪は立派な凶器である。不安を振り払おうとリジェはぐっと
拳を握った。
「でも、行かなくちゃ。薬草を採って帰るって約束したんだ」
「当たり前だろ。用心して急ぐぞ」
 そこから三人の口数は減り、おかげで歩く速度も上がった。いよいよ問題の大木
が目の前に迫ってくる。あの木に巻きついている植物の実を採れば良いのだ。どう
も高い所にあるようなので木登りが必要そうだが。三人とも大木を見上げながら根
元の辺りまで歩いてきた。
「たっかーい。あんなところにあるのどうやって採るの?」
「登るに決まってるだろーが」
 いつもの馬鹿にした口調でヤージュは言ったが、多少は木登りできるラサが戸惑
うくらい高いのである。あんな上の方にしか実がなってないんだから大変だ。いや
はや、登りがいがありそう。
「じゃ、僕行ってくるね」
「早いとこ頼むぜ」
「えぇっ、大丈夫なの?」
「平気、平気」
 近所におつかいに行くかのような気軽さで言うのものだから、ラサが目を剥いた。
別に心配かけないように明るく言ってるというわけではなく、本当に「ちょっと行
ってくる」程度のつもりなのだ。高い場所は結構得意。靴を脱ぐとリジェはさっさ
と木を登り始めた。
 太い幹にとりついて登るのは一苦労だが、枝が伸びているところまでくればうま
い具合に手をかけ足をかけどんどん登っていける。リジェは快調に上を目指してい
た。
 一方、ラサとヤージュはしばらくリジェを見ていたが、いい加減首が痛くなって
きた。首筋の反対側を伸ばそうとして、ヤージュは初めて木の根元を見た。すると。
「んげっ」
 その引きつった声にラサも視線を落とす。
「何? どーかした……わね」
 見下ろせばそこに人の頭よりやや小さいくらいの穴が……。しかも一見可愛らし
い兎が顔を覗かせてるし。とりあえずリジェが早く行ってくれて正解か?
「う、……ヤージュ、あれ」
「解ってる」
 気がつけば周りはピサカだらけ。巣に近付く奴なんて攻撃されるに決まってるじ
ゃないか。本当に危険なのはここだったのだ。まずいことにすでに囲まれてるうえ、
巣が木の根元にあるので木の幹に背をつけて死角からの攻撃を防ぐという技が使え
ない。自然と二人は背中合わせになった。
「おい」
「何よ」
 周囲に注意を向けたまま二人は会話した。ヤージュがナイフを構える。
「おまえ逃げていいぞ」
「はあ!?」
 まさかそんなこと言われるとは思っていなかったラサは派手に、それでも首だけ
で振り返った。勝手にしろとか邪魔だとか言ってたのに、なんで?
 だがヤージュは本気だった。訝しげな表情を向けて突っ立っているラサにいらつ
き、焦りながら叫んだ。
「オレ一人じゃこんだけ全部相手するのきついんだよ!」
 その声が合図だったかのように一匹のピサカが飛びかかってきた。舌打ちしなが
らヤージュはナイフを一閃させる。倒された仲間に触発されたのかどうか、ピサカ
は一気に攻撃体制に入った。身構えつつもヤージュは歯ぎしりした。
(おまえに大怪我させたらオレがリジェに合わせる顔ないだろうが)
「何言ってるのよ」
 ようやくピサカに注意を戻したラサが半ば呆れた声で言った。
「この状況でどうやって逃げるの。それに一人じゃきつくても二人ならどうにかな
るかもしれないわよ?」
「何偉そうなこと……」
 ヤージュはナイフを振り回す。
「だって無理を言ってついてきたのにただの足手まといじゃ荷物以下でしょ」
 声と同時にポロンと音がした。風を切る音と鈍い音が続く。
「?」
 つい振り返るとラサの手には小型の弓、ではない。竪琴(サウン)、確かずいぶ
ん昔に廃れてしまったはずの幻の楽器が握られていた。ラサは得意そうな顔で腰の
後ろから短めの矢を取り出している。しかも同時に三本。
(何考えてんだ?)
 ところがラサは三本とも同時に射ってしまったのである。うち二本が襲いかかっ
てくるピサカをしとめた。
「なんだそれは! 楽器じゃないのかっ!?」
「へえ、良く知ってたわね。でもこれは同時に武器でもあるの、弓箭琴(サウンシ
ャン)ってとこかしら」
「ほーお、だったらせいぜい頑張りな。いくぜ!」
 ニヤリと笑ってヤージュはピサカに全神経を集中させた。ラサも負けてはいられ
ないと矢をつがえる。
 だが、こちらの状況が不利なことは変わりなかった。ナイフでは間合いが取れな
いし、一本だけなので投げるわけにもいかない。短かろうとなんだろうと弓は近距
離に向かない。獣の早さにはそうそう追い付けるものではない。二人とも次第にあ
ちこちに切り傷を作っていた。
「もう、切りがないっ。……!」
 マントの内側に手を入れた瞬間、ラサはぎくっとした。矢がもうない。もともと
そんなにたくさん用意してなかったのだ。腰の後ろに気を取られたラサをピサカが
襲った。避けきれない……!
「ちっ!」
 ラサの危機を視界にいれたヤージュがナイフを投げた。間一髪でピサカが倒れる。
しかし、これでもう武器はない。万事窮すか。
(くそ……、奥の手使うしかないか?)
 リジェ以外の人の前では決して使うべきではないが、命には代えられない。
「おいラサ、これから見ること他人に話すなよ!? 話したらただじゃ済まさねぇか
らな!」
「なによそれはっ。でも何とかできるなら解ったから早くして!」
「その言葉わすれんなよっ」
 叫び返してからヤージュは地面に手をかざし、口の中で何かを唱えた。刹那、大
地が波打つ!

 その少し前、大木を半分以上登ったところにリジェはいた。いくら大きな木とは
いえ、枝が細くなってきて登るのも慎重にならざるを得ない。高い所は得意だが落
ちるのは困る。それにしても下の方が騒がしい。何かあったのかもしれない。早く
実を採って戻らなくては。リジェは次の枝に手をかけた。さらに幾つかの枝をよじ
登る。
「これより上に行くのは無理、かな」
 この高さでは海からの風も強い。枝の太さを考えてもこの辺りが限界だろう。ア
パマルガの赤い実はあと少しだけ上だ。手を伸ばせば届くだろうか。
「よっと」
 幹にしっかり掴まってリジェは枝の上に立った。注意しながらも右手を放し、赤
い実に向かって伸ばす。まだ、届かない。右足が浮き始める。
「あと……少し」
 精一杯伸ばした腕が震えかけたその時、実をつけている部分のすぐ下の蔓を掴ん
だ。
「やった!」
 リジェは蔓ごとアパマルガを引っ張ると右手を使ってその実を何個かむしり取り、
腰に下げておいた袋にいれた。
「よし。早く下に降りなくちゃ」
 ところが。突如に木全体が揺れた。まだリジェは片手で幹を掴んでいるだけの状
態だったのでひとたまりもなかった。足が滑る。おりからの風も手伝ってリジェの
体は幹から少し離れたところで落下した。
「うわああぁっ!」

「すごい……。どうなってるの、これ」
 尻餅をついたままラサは呆然と呟いた。目の前ではピサカ達が土に半分埋もれて
いる。訳が解らなかった。ヤージュが何かした途端に、地面が生き物のようになっ
てピサカを押さえつけたのだ。
「あー、疲れた」
 ヤージュが口を開いた後ろで、ズザザザザーッと激しい木の葉の音がした。びっ
くりして振り返るとリジェが枝にぶら下がっている。
「いたたたた……。ヤージュ、気をつけてね……。一瞬生命の危険を感じたよ、僕」
 なんとか地面に激突することだけは避けられたものの枝に掴まったときの腕にき
た衝撃はとんでもなかった。しばらくしびれてそうだ。なのにヤージュときたらし
れっとした声でいう。
「あ、悪い。おまえ上にいたんだっけ」
「酷い……。そっちが大変だったのも解るけど……」
 言いながらリジェは手を離して地面に降りた。ラサが心配そうにやってくる。で
もラサの方こそ体中に傷をつくってる。
「大丈夫?」
「私は引っ掻き傷程度だもの。何でもないわ。それより実は採れた?」
「うん。ここに」
「よし、それなら早く戻るぞ」
 その意見に反対するはずもなく、三人は疲れをものともせずに来た道を大急ぎで
戻っていった。ウルバスにこれを飲ませるまでは気が抜けない。
 リジェ達が帰ってくるとピリカは両手を上げて喜んだ。早速潰して水に溶かし、
ウルバスに飲ませるとみるみる顔色が良くなった。呼吸も安定したし、一日寝てい
ればすっかり良くなるだろう。
「本当に君達のお陰よ。何てお礼を言ったらいいか。大変だったろう、もう遅いか
ら今日は泊まっていっとくれ。御馳走するよ」
「ありがとうございます」
 にこやかに礼を言うリジェの後ろからヤージュが口を挟んだ。
「ついでに一つ頼みてぇんだけど。明日船貸してくれねーか?」
「船? 良いよ、おやすい御用さ」
「よっしゃ、これで明日はあの島に行けるな」
「いろいろ本当にありがとうございます!」
 当面の問題は解決したし。さあ、きょうはぐっすり寝られるぞ。

 ……暗闇の中、二つの影が動いていた。
「動いたわね。感じた?」
「ああ、地界のものだ。南だな」
「せっかくですもの、顔でも見に行きましょう」
「そうだな……」
 そして、氷のような声が二つ、響くこともなく闇の中に消えていった。

 翌日。リジェ、ラサ、ヤージュの三人はピリカに送ってもらって島にたどり着い
た。船だけ借りても素人じゃどうしようもないだろう、とピリカが船頭を買ってで
てくれ、夕方になればまた迎えにきてくれるというので恐縮しつつもお願いしてし
まったのだ。本当に頭の下がる思いである。
「わざわざすみません。ご迷惑おかけして」
「いいんだよ、この位。ま、こんな何もないとこで何をする気かは知らないけど、
空が赤くなる頃にはここにいておくれよ。それじゃあ」
 それだけ言い残すとピリカは船をこいで村へと戻っていった。遠のく船を見送っ
てから、三人は互いに顔を見合わせた。まず、一番ここにいる理由が解らないラサ
が口を開く。
「さて、これからどうするの?」
 しかしそれに答えるでもなく、リジェがふらっと歩き出した。黙ったままラサの
横を通り過ぎる。らしくない行動に思えてラサは声をあげようとしたが、その肩を
ヤージュが掴んだ。
「あんまりでかい声出すなよ。今あいつは集中してるから邪魔するな」
「集中……? 何かあるの?」
「探し物」
「?」
 訳が解らない。ラサは眉をひそめたが、ヤージュはそれ以上何かを言ってくれそ
うにない。仕方なくラサは不満げにリジェのほうを振り返った。リジェは必死に目
を凝らして何かを追いかけているように見える。何が見えているのだろう。
 ふと、リジェが我に返ったかのようにいつもの笑顔で振り返った。不思議そうな
ラサの視線とまともにぶつかり、照れたように頭を掻く。ラサにしてみれば何して
るか全然解らなかったはずだ。一人で何やってんのって感じだったろうなあ。うー
ん。
「おい、どうだったんだ」
 待ちくたびれたようにヤージュの声がして、リジェは視線をそちらへ動かした。
「うん。だいたい解った。島の中心へ行こう」
「よーし、そんなら早いとこ行くとしようぜ」
 いろいろ疑問をぶつけたそうなラサから逃げるべくヤージュは決断を下すなり歩
き出した。置いていかれたらたまらないのでラサも出かかった言葉を引っ込めて追
いかける。とにかくついていきさえすれば『探し物』が何かだけは解るのだから。
(でも少しくらい質問したっていいわよねー)
 黙ってるのは性に合わないし。
「それにしても昨日の凄かったわね、ヤージュ」
 来た、というようにヤージュはちらっと後ろを見た。
「あれってやっぱり『神の奇跡』ってやつ? なんで人に言っちゃいけないの? 
名誉なことなんじゃないの、普通は。よっぽど信仰心の厚い人とか位の高い神官
・司祭にしか使えないんでしょう? ま、あんたが神官ってことはありえないで
しょうけど。でもその割にはヤージュがお祈りしてるのを見たことないのよねぇ。
想像もつかないわ」
「……よくそんなに長い台詞一気に喋られるよね……」
 半ば呆れながらリジェが言うとラサがにっこり笑う。
「ありがとう♪」
「誰がほめたよ……。それにオレだっておまえが祈ってるの見たことないぞ」
 そういえばそうだなー。リジェが何気なく見るとラサの顔は笑顔が引きつったま
ま時が止まっていた。よく解らないけど、自分で自分の首に縄をかけちゃったんだ
ね、きっと。
「そっか、ラサはお祈りしてないんだ」
「リジェ〜、あ、あのね、別に神様なんかいないって言ってるわけじゃなくて、祈
る気がしない……ってあああっ! そうじゃなくてぇ、いろいろ私にも都合という
か考えてることがあって、だってだって、あんなのおかしいんだもん!!」
 何気なく呟いた台詞に、ラサが異常に反応するのでリジェは面食らった。首に掛
けた縄をさらに締め上げてしまっているような気もするが、とにかく弁解しようと
している。そんな必死に言い訳することないのに。僕が神官だったら話は別なんだ
ろうけど。神官や礼拝に熱心な人が聞いたらどんな目に合わされるか解らない。神
に感謝し、祈りを捧げたりすることは、とても日常的なことなのだ。
(そうか……)
 ようやくリジェはラサの慌てぶりに納得がいった。
「落ち着いて、ラサ。大丈夫。そんな事で責めたり、見る目が変わったりしないか
ら」
 恐れていたのだ。異端のまなざしを向けられることを、一人ぼっちになることを。
「だってもう友達なんだから、僕たち」
「……うん! ありがとう」
 ぱっとラサの顔に満面の笑みが広がった。後ろめたいまま内緒にしていたことが
受け入れてもらえた。嬉しくてこの上なく心が軽い。足取りだって軽くなる。と、
後ろからポツリと声がした。
「落ちるぞ」
「……!!」
 がっくん、とラサの左足が宙を踏んだ。一瞬体中の筋肉がちぢこまる。が、すぐ
に足は地面についた。階段が終わったと思ったらもう一段残っていた感覚だ。
「あー、びっくりしたぁー」
「大丈夫?」
「せっかく言ってやったのに」
 ヤージュが馬鹿にした目付きでラサを見下ろした。悔しいのでラサも「遅いのよ」
とかなんとか言い返してみる。リジェはそれを横に見て苦笑してから、眼下に広が
る光景を眺めた。
 まるで小さな円形劇場の客席の一番上にいるようだった。今立っている位置から
すり鉢状に窪んだ地面は、中心へ向かうべくどこも階段になっている。降りきった
ところは舞台の代わりに水鏡が青い空を映していた。
「ここだ……」
 リジェは確信を持って呟くと中央の池に向かって歩き出した。ラサとヤージュも
続いて階段を降りていく。
「なんだかここ、気持ち良いわね」
 きょろきょろと辺りを見回しながらラサが言った。嬉しそうにリジェが応える。
「ラサにも解るんだ」
「うん、なんか歌いたくなっちゃう感じ」
「歌うなよ」
 間髪入れずにヤージュが言った。
「あら、これでお金貰ってたのよ、私。もっとも本業は踊りだけど」
「別にオレは聞きたくねーもん」
「ふぅーん、つまんないの」
 とか言ってる矢先から鼻歌なんか出てたりするが……まぁいいか。
「ねえ、ここに『探し物』とやらがあるわけ?」
「そのはずなんだ。取ってくるから待ってて」
 そう言い残すとリジェは残りの五、六段を軽快な足取りで降りきった。「待って
て」と言われるとついていくのが悪い気がして、ラサはその場に腰を下ろした。ヤ
ージュはその横を通り過ぎていく。ちょっと一人で寂しい。
 リジェは池を覗きこんだ。不思議なことに水は澄んでいて、底までしっかり見え
る。ずっと視線を動かしていくと中央に門戸を模した彫刻があった。門のつなぎ目
に当たる部分に小さな穴があいている。この彫刻は地面に埋め込まれていて運べな
そうだから当然『探し物』は別である。しかし池の中には他にこれといったものは
ない。
「どーなってんだ?」
 隣から疑問をぶつけられ、リジェは思いつきで答えた。
「やっぱり、お願いするんじゃない?」
「お願い……?」
 本当にそれで大丈夫なのかと訝しげなヤージュの前でリジェはすっと片膝をつき、
池に語りかけるように喋り出した。
「聞こえますか。僕はリジェ=ルナ、力を貸してほしくて参りました。僕が持ち主
でないのは解っていますが、必ず持ち主を捜しだすのでそれまでの一時『間(はざ
ま)の鍵』を僕に貸してくださいませんか」
 しかし水面が僅かに揺れただけで、他に変化は起こらなかった。諦めずにもう一
度リジェは呼びかける。
「お願いします……!」
 その声に被って、背後から高く響く歌声がした。

   海を首長とし、天上の大水の中より、身を清めつつ、休むことなく来る。
   かかる汝はここに我を支援せよ。
   天的大水、あるいはまた流るる水、
   掘りいだされたるもの、おのずから生じたるもの、
   海を目指し、清く澄みたる水、かかる汝はここに我を支援せよ。
   その中央に王者が、人間の真実と虚偽とを見下ろしつつ進む水、蜜を滴らし、
   清く澄みたる水、かかる汝はここに我を支援せよ。

「ラサ……」
「あっ、ごめん。何か邪魔した?」
 歌い終わって目を開けたラサは、リジェとヤージュがいつの間にか振り返ってい
るのを見てあわてた。暇だったのでつい歌いだしちゃったのだが。
 チャポ……ン……。
 その時池の中央に俄かに波紋が広がった。音に反応したリジェが振り返って池を
覗く。
「あっ……!」
 さっき見たときは何もなかった彫刻の穴に、青い石で飾られた鍵が差し込まれて
いた。これこそが探していた『間の鍵』。応えてくれたのだ。
「ねえねえ、どうしたの。私まずいことした?」
 リジェが声を上げたっきり動かないものだからラサは本当に心配になって池の近
くまで降りていった。その気配でリジェは現実に帰ってきた。笑顔でラサを見る。
「まずいどころか! ラサの歌のお陰だよ」
「えっ、何のことか知らないけど……そう? 舞踊団で楽師をやってたお姉さんに
教えてもらったんだけどね」
「ちょっと待ってて。あの鍵取ってくるから」
 リジェは靴を脱いで服の裾をまくると池の中へ入り、静かに鍵を引き抜いた。冷
たいようで温かい、不思議な感触。
「二つ目、だな」
 ヤージュの言葉にうなずく。これで一歩目的に近づいたのだ。例え道のりは遠く
ても、信じるもののためへの大事な一歩。リジェは『鍵』を天にかざすと、極上の
笑みを浮かべた。
 ……忍び寄る二つの影には、まだ誰も気付かない。