神の住む山 XREA.COM

「みなぎ、いくぞ。」
「うん。いつでもいいよ。」
 柿の木に登った幼なじみの明彦を見上げ、みなぎは手を振って答えた。明彦はひとつうなずくと、ほどよく熟れた柿を枝からむしりとって放り投げる。夕日の色をした実は、みなぎが広げた風呂敷の中にすとんと落ちた。
「明彦すごい。ちょうどいい場所に落としたね。」
「まかせろ。よーし、もうひとつ……。」
 くすぐったそうに笑うと、同じように柿を手にした。けど、二つ目の柿が投げられることはなかった。
「みなぎ、明彦! すぐに来い!」
「なんだよ、親父。今日はちゃんと畑も手伝ったろ。」
「私も、お勤め済ませたよ?」
 せっかく遊んでいたところを邪魔されて、明彦は頬を膨らませた。みなぎは両手で風呂敷を広げたまま、きょとんとおじさんの顔を見る。
「そんなんじゃない! ……おおばばさまが、亡くなられた。」

 おおばばさまは村でたった一人の巫女だった。神様に豊作を祈り、天候を占い、村のみんなの相談に乗った。そのおおばばさまが、死んだ。
 みなぎは早くに親をなくしていて、おおばばさまのお屋敷に住んでいた。ずっと一緒だったから、お祈りの仕方や何かを知っているのはみなぎだけだった。だからおおばばさまが亡くなって、そのままみなぎが巫女になった。おおばばさまと一緒に住んでいた広い広いお屋敷は、そのままみなぎの屋敷になった。
 巫女になると、占いやお祈りのために、なかなか外に出られなくなった。みだりに男の人と話をしてはいけないとかで、明彦とも会ってはだめだと言われた。巫女の仕事はいやではないが、明彦に会えないのは不満だった。

 その夜、広い部屋のまん中でみなぎはかすかな物音に目を覚ました。小さいのに、不思議に耳に残るので、みなぎは首をかしげた。ふとんを抜け出して縁側に近づいてみる。
 ひょうと山からの風が吹いた。
「……ひっく、……ふぇ……ん。」
「泣き声?」
 みなぎは目を見開いて辺りを見渡した。途切れ途切れに聞こえてくるのは、確かに子供の泣き声だった。慌ててぞうりをはいて庭に出る。みなぎは冷たい風に肩を震わせた。 「誰かいるの? 何もしないから出ておいで。」
 月明かりを頼りに茂みの裏を覗き込み、木の陰を探したがどこにも誰もいなかった。
「気のせいだったのかしら。」
 うーんと考え、みなぎは耳を澄ましてみた。いつのまにか、泣き声は聞こえなくなっていた。おかしなこともあるものだ。みなぎは首をかしげつつも、部屋の中に戻っていった。  ところが次の日、朝のお祈りをしている時。みなぎの耳にまた子供の泣き声が聞こえてきた。
「ねえ、昨日から聞こえるのだけど、あれはどこの子かしら。」
 ずっと泣いているなんて何があったのだろう。気になって仕方ないので、おまじないのお願いにきた村人にたずねてみた。
 するとその女の人はぱちぱちとまばたきして、耳を澄まし、首を横にふった。
「もうしわけありません、巫女様。私には何も聞こえません。子供がどうかされましたか?」
「うそ。だってほら、泣き声が聞こえない?」
「さて、少なくともここにくるまで泣いている子供には会いませんでしたが。巫女様には特別に聞こえるのかもしれません。」
「……そう。」
 いつのまにか浮いていたおしりをすとんと下げて、みなぎはつぶやいた。
 何なのだろう、あの声。どこから聞こえるんだろう。どうして私にだけ聞こえるんだろう。誰が、泣いているんだろう。
「明彦ならどうしたかな。」
 村人が帰ってから、みなぎはそっとつぶやいた。
 明彦と一緒に遊んでいたころの自分ならどうしただろう。村中を走り回って、裏のお山に探検に行っておおばばさまに怒られたりした、あのころだったら?
「みなぎー、あそびにいこうぜ。」
 お屋敷中に届く声でそう呼んでくれたら、いつだってここから飛び出していけたのに。今は誰も名前を呼んでくれない。
 ほんの少し、涙がにじんだ。山からの風がひょうと吹く。がらんとした部屋の真ん中で、泣き声だけが響いていた。
「……あの子も、名前を呼んでくれる人がいなくて泣いているのかな。」
 ふいにそう思いついて、みなぎは顔を上げた。それなら私が行ってあげなくちゃとも思った。何しろ泣き声が聞こえているのはみなぎだけなのだから。
「ようし。」
 みなぎは外をにらみつけて立ち上がった。行こう。泣いている子供のところへ。みなぎは巫女の正装から動きやすい着物に着替えた。薄暗い廊下をわたり、屋敷の裏口に回った。そっと顔をのぞかせて、辺りに人がいないことを確かめる。顔を出してみると、青い空が広がっていた。ときおり白い雲が、裏のお山に影を落として、ほわほわ流れていく。
「ふえぇ……ん、うぅ……。」
 風がみなぎのほほをなでた。泣き声が少しだけ大きく聞こえた。どうも、泣き声は山のほうからするらしい。みなぎはそうっとお屋敷を抜け出して、山のほうへと歩き出した。

 前に明彦と一緒に歩いた道をたどって、みなぎは裏のお山にたどり着いた。泣き声はだんだんよく聞こえるようになった。
山は雑木林になっていて、秋にはどんぐりやらきのこやらがとれるので、子供たちのいい遊び場だった。けれどもそれはふもとの話で、山の奥のほうには綱が張ってあって、入れないようになっていた。綱は高さを変えて三重に張ってあった。そこは山の神様の土地だからだという。昔、一歩踏み入れただけで、おおばばさまに大目玉を食らった。
 しかしどうも声は綱より向こうから聞こえてくるようだった。みなぎはさすがに困ってしまった。
(どうしよう。勝手に入ったら神様は怒るかしら。)
 でもここまできて引き返すのも気分が悪い。こうなったらあとできちんと謝ることにして入ってしまおうか。そこまで考えて、みなぎは目をくるんとまわした。
(あれ? でも向こうから声がするってことは泣いているのが神様なのかしら?)
 この向こうが神様の土地だというのならそうなのかもしれない。それなら様子をうかがいにきたのだから、怒られることもないだろう。みなぎはそう自分に言い聞かせて綱の反対側へ足を踏み入れた。
「神様、山の神様。私はふもとの村で巫女をしておりますみなぎと申します。風に乗って私の元へ声が聞こえてまいりました。あれはあなたでしょうか。何を泣いておいでです。どうか姿をお見せください。」
 みなぎはそう言って二、三歩すすんだ。すると木の根っこの辺りからウサギが一匹、飛び出してきた。
「ああ、おじょうさん。あの声が聞こえたのですか。それはようこそいらっしゃいました。」
 ウサギは鼻をひくひくさせてみなぎを見た。長い耳は悲しそうに下を向いている。
「こんにちは、ウサギさん。あの声のこと、何か知っているのかしら。」
 しゃがみこんでたずねると、ウサギは何度もうなずいた。
「ああ、ああ、知っていますとも。あなたのお考えのとおりです。あの声は私たちの大切な山の神様ですよ。」
「神様って子供だったのね。どうして泣いているのかしら。」
「こちらへついておいでなさい。」
 ウサギはみなぎに小さなおしりを向けてぴょんぴょんと山を登りだした。みなぎは言われるままにウサギのあとを追いかけた。小さくて茶色い体はときおり見失いそうになるが、そのたびに振り向いて声をかけてくれたので何とかついていく。  やがて、急に目の前にがけが現れた。見上げると大人三人分はありそうな高さだ。その上から泣き声が聞こえる。 「この上に神様がいらっしゃるの?」 「そうです。もっとも、この高さですから私はお目にかかったことはありませんけど。」
 確かにウサギにはこのがけを登るのは無理だろう。ほかの動物だってたぶん同じだ。
「すると神様はずっとこの上で一人なの?」
「いいえ、そこを見てください。あれはこの山でいちばん古い木だったのですが、ほら、枝ががけの上までのびているでしょう?」
 こけがびっしり生えていた。太いみきは黒々として、枝をはりめぐらせている。そのてっぺんは、ウサギの言うとおり、がけの上にまでのびていた。強い風でざわざわとゆれている。
「この木が神様と私たちを結ぶ大切な役目をしてくれました。まるでこの山の母親のようでした。」
「でも、この木……かれているわ。」
「ああ、そうなのです。ずっと山を見守ってくれた大樹も、とうとう命が尽きてしまったのです。それからというもの、がけの上から聞こえるのは泣き声ばかりでございます。」
 ウサギは深いため息をついた。みなぎはがけを見上げた。ずっといっしょだった大樹が枯れて、今あそこには神様しかいない。ウサギはここにいるのに、声が届かない。みなぎだって会いにきたのに、ここからでは何も見えない。
「おじょうさん、人間のおじょうさん。私はどうにかこの上にいきたいのです。どうか知恵をくれませんか。」
「ええ、そうね。なんとかしたいわ。」
 ウサギがここにいることを神様に知らせたい。どうにかしてがけの上に行けないものだろうか。
「そうだわ、はしごをかけてはどうかしら。長いはしごを作るの。」
「しかし私ははしごを上れません。」
 ウサギは小さな前足を見つめた。とてもはしごにつかまれそうにはなかった。
「だいじょうぶよ。私がかかえて上れるから。そうと決まったらあそこに届くはしごを作らないとね。」
「それなら山の仲間を呼びましょう。木が枯れてから、みんな気落ちしていますが、神様に会えるとなればすっかり元気になるでしょうよ。」
 ウサギはちょっと待っているようにいうと、一度高く飛び跳ねて林の奥へとかけていった。そこでみなぎはとりあえず太い木の枝を探し始めた。
そこらを動き回って枝が両手に抱えるほどになったころ、ウサギがほかの動物たちを連れて帰ってきた。
「はしごを作るですって?」
「山の神様に会えるのかい?」
 いろんなことを言いながら、のねずみやきつねがやってきた。その後ろから大きなくまが姿を見せたときにはさすがにおどろいて、悲鳴をあげた。
「おじょうさん、お待たせいたしました。みんな手伝ってくれるそうですよ。」
 みなぎの足元でウサギがうれしそうに言った。
「さあ、早くはしごを作りましょう。何をしたらいいのですか?」
「え、ええ……。それじゃあまず材料を集めましょう。このくらいの太い枝と、長い棒……これは木を削らないとだめかしら? あとひものようなものがいるわ。」
「それならわしが木を折ってくるから、誰か削ればいい。」
 くまが一歩前に進んでそう言った。するとウサギが長い前歯を見せて進み出た。
「私がやりましょう。」
「その間に僕はつたを取ってこよう。」
とのねずみ。つづいてきつねが
「するとあっしは枝ひろいですかね。」
 うまい具合に仕事が分けられたので、すぐさまはじめることにした。みなぎはさっきの続きで枝を拾うことにした。
 くまが自慢のつめを立てて木を根元のほうで折った。すかさずウサギが飛びついて前歯でがりがりけずって、二本の長い棒を作っていく。
 のねずみはがけにはりついてひもに使えそうなつたをかじり取ってきた。きつねとみなぎが集めた枝は小さな山を作るほどだった。
「さあ、これで準備完了ね。はしごを作りましょう。」
 二本の棒を並べて、その間に枝を置き、動かないようにつたで縛りつける。少し間を開けて、まだ枝を一本置き、蔦で縛る。一本、また一本。これを何度も何度も繰り返し、山になった枝がすべてなくなって、とうとうはしごが完成した。長い長いはしご。これならがけの上に届くにちがいない。
「早く早く。」
「風があるから気をつけて。」
 みんなの弾んだ声を背に、みなぎははしごを立てかけた。すべらないようくまに押さえてもらって、一段目に足を置いた。くっと体重を乗せてみる。枝は折れそうもないし、縛りつけたつたもゆるくない。
「だいじょうぶそう。まず私が上ってみるわね。」
「おじょうさん、私も連れて行ってくださいよ。」
 ウサギが懐に飛び込んできた。
「ああ、約束したものね。いっしょに行きましょう。みんなは少し待っててね。」
 みなぎは片手でウサギを抱くと、はしごを上りはじめた。一歩、また一歩。最初は調子よく上れたが、だんだん風ではしごがゆれて、なかなか上れない。ちょっと下でも見ようものなら目を回すに違いなかった。
 震えそうな腕の中からウサギが励ます。
「がんばってください。ほら、もうすこしです。」
 みなぎはまっすぐ上を見つめて、腕に力を入れた。一段ずつゆっくり上っていく。一歩、また一歩。
 そして、ついに一番上にたどり着いた。息を吐いてみなぎはがけの上にひざをついた。今になって、体中から汗がでた。
「…………だれ?」
 汗をぬぐっていると、正面で声がした。みなぎは慌てて顔を上げる。少年は、みなぎより年下に見えた。泣き腫らした目でこちらを見ている。雲が流れて影を落とした。
「私はふもとの村のみなぎといいます。あなたに会いにきました。」
「わたしに?」
 山の神様は目を丸くした。
「会いにきてくれたというのか? もう一人ではないのか?」
「違います。はじめから、一人ではありませんよ。」
 みなぎは腕の中のウサギを見た。
「ずっとみんな、あなたを心配していました。あなたを呼んでいました。」
「ええ、そうですとも。みんなあなたに会いたがっています。」
 ぴょんと飛び出してウサギが言った。
「こんなところにいないで、どうか下りてきてくださいよ。そうしたらいつでもあなたに会えるし、話もできるのです。」
 また神様は目を丸くした。
「下りる? ……下りて、いいのか?」
「誰がだめだなどといいましたか。ほら、はしごもかけたんです。あなたが下りたければ下りてください。私たちはみんな歓迎しますから。」
「……そうか。」
 神様は小さくつぶやいて、微笑んだ。一緒になってみなぎも笑みを浮かべた。高い空を、風が通り過ぎていった。

 たまに遊びにくることを神様や動物たちと約束して、みなぎは山を降りた。もう日が傾きかけている。
「大変、早く帰らないと。」
 綱のところまで戻ってきたところで、聞き覚えのある声がした。
「みなぎー!」
「明彦! どうしたの?」
 みなぎの言葉に明彦は肩を落とした。
「そりゃないだろう。みなぎがお屋敷にいないって、村の連中は大騒ぎだぜ? てっきり俺のところに遊びにきてくれるんだと思ったのに何でこんなところにいるんだよ。」
「……そっか、そうよね。うん、今度は明彦に会いに行くわ。いっしょに神様に会いに行きましょう?」
「なんだ、それ。」
 問いには答えず、みなぎはくすくすと笑い出した。
 山からの風がひょうと吹く。明るい笑い声があたりに響いた。