光のきざはし - 序章 XREA.COM

  慈悲深く慈愛あまねき神の御名において。
  神に讃(たた)えあれ、万有の主、
  慈悲深く慈愛あまねきお方、
  審判の日の主宰者に。
  あなたをこそ我々は崇めまつる、あなたにこそ助けを求めまつる。
  我々を正しい道に導きたまえ、あなたが御恵みをお下しになった人々の道に、
  御怒りに触れた者や彷徨う者のではなくて。

 神は全てを無からお創りになった。言葉によって天地を創造し、昼夜を設け、動
植物を創りだされた。最後にご自分の姿に似せられて人間を創られた。そして神は
人間に世界を治めるよう命ぜられたのだ。
 人間は世界中に栄えた。しかし人々はおごり、勝手な行動をとるようになる。自
らの主たる神を忘れ、邪なる存在に心惑わされる者が現れた。そこで神は、ご自身
の意志を啓示するための預言者の一族をお選びになられた。証として神の血を分け
与えられたその者は、ばらばらだった人々の心を一つにしようと立ち上がった。

   言え、「神に栄光あれ、選ばれし神の僕に平安あれ」。神と彼らが併置する
  邪神と、いずれが上か。
  天地を創造したまい、おまえたちのために天から雨を降らしたお方ではない
  か。この雨を持って、我らは美しい庭園に草木を生い茂らせた。そこに草木を
  生い茂らせるのは、おまえたちのよく成し得るところではない。神と並ぶ神な
  どありえようか。いや、彼らは邪道へ曲がりゆく民である。
   大地を安息所となし給い、その間に河川を設け、不動の山々を造って、二つ
  の海の間に障壁を置かれた方ではないのか。神と並ぶ神などありえようか。し
  かし、彼らの多くは知らないのである。
   困ったものが助けを求めるとき、これにお応えになり、害悪を除去し、おま
  えたちを大地の後継者となしたもうお方ではないか。神と並ぶ神などありえよ
  うか。しかし、おまえたちの多くはこれに思いをいたさない。
   陸と海の暗闇の中で、おまえたちを導きたまい、慈悲に先立って雨風を福音
  として送る方ではないのか。神と並ぶ神などありえようか。神は、彼らが崇拝
  する邪神を超えていと高きお方である。
   創造を始め給い、また繰り返し給い、おまえたちに天と地から糧を送りたも
  うお方ではないのか。神と並んで他に神があるというのか。言ってやれ、「も
  しおまえたちが真実を語っているのなら、証拠を示すがよい」。

 預言者は長い時をかけて世界中を巡り、人々の心に神を取り戻させた。神の御意
志に基づく平和な時が訪れたかに思われた。預言者は『聖者(アネサリア)』と呼
ばれ、人々に推されて王に即位された。転輪聖王(てんりんじょうおう)すなわち
チャクラヴァルティンの誕生である。
 けれど、神を恐れぬ邪悪なる者たちの根強い一派があった。彼らはどんな説得に
もうなずかなかった。だからといって放っておくわけにもいかず、やむなく王は兵
をあげた。邪悪を広げないための聖戦であった。
 戦いには勝利した。けれどもアネサリアは悩んだ。神の御意志を伝えるだけに過
ぎぬ自分が、人に殺生を命じてよかったのかと。自分は大罪を犯してしまったので
はないか。生きて人を治める資格などない。
 アネサリアは自ら命を絶とうとした。人々はそれを知ると大いに悲しみ、思いと
どまるよう懇願した。後を追うと言い出す者もあった。人々にとって、神の声を聞
くアネサリアはもはやなくてはならない存在だった。それでも、いよいよアネサリ
アがその喉に短剣をつきたてようとした刹那、彼の脳裏に神の啓示が瞬いた。「生
きよ」と。

  天が裂ける時、
  幾多の星が飛び散る時、
  海洋が溢れ出る時、
  幾多の墓が掘り返される時、
  魂は、既に成したこと、後に残したことを知る。
  おお、人間よ、気高い主のことでおまえたちを欺いたものは、一体何か。
  汝を創造し、形を与え、ととのえ、
  御心のままに汝に姿を与えたもうお方ではないか。
  いや、まったくのところ、おまえ達は審判を嘘だと言っている。
  しかし、おまえたちの上には監視役たちがいる。
  気高い書記がいる。
  彼らは、おまえたちの所業をよく知っている。
  敬虔なものは、至福の中に住むが、
  放蕩者は、業火の中に住み、
  審判の日、その中で焼け滅びる。
  そこから抜け出すこともかなわぬ。
  審判の日が何であるかを、何が汝に教えるか。
  一体審判の日が何であるかを、何が汝に教えるか。
  どの魂も他の魂に何も成し得ない日、その日、ご命令は神だけのもの。

 神は人間に生きて自らの業を背負っていくよう、己の力でそれをあがなうよう定
められた。そして、来るべき審判の日に備えるべし、と。
 預言者は神の言葉に自害を止めた。生前の正しい行いのみが来世での幸福を約束
する。ならば審判の日に一人でも多くの人が至福の地へいけるように、王として
『聖者』として生きようと決心したのだ。
 代々この心を忘れぬために、転輪聖王はこのとき啓示が与えられた地に都を置い
た。聖都アネサルスの由来である。以来、神の血を継いだ預言者の下、人は平和に
暮らしていった。

   啓典に記された、古い物語(れきし)である。それより、星霜の時が過ぎる。

 その日、夜だというのに宮殿だけは騒がしかった。
「くぅっ……。」
「王妃様、しっかりなさいませ。どうか……。」
 豪華な寝台の周りを医師や女中たちが取り囲んでいた。どの顔も疲れきっている。
つきっきりで看病していたのだろう。彼らの視線はずっと一人の女性に注がれてい
る。王妃、つまりアネサリアの妻だ。
 白い肌は熱で紅潮しており、流れる汗はいくら拭いてやっても止まらない。意識
があるのかないのか、目を閉じたまま、時折苦しげにうめいた。
「王妃さまっ!」
「お気を強くもたれませ、御子はどうなるのです!」
 王妃の腹は高かった。しかし……。
(残念だがこの熱ではもう赤子は助かるまい。それどころかこのままでは……。)
 医師は冷静に患者を診て、判断した。その判断は絶望を伴い、彼は己の力不足に
落胆した。だが、これを言うのは自分の責務だ。苦しげに顔を上げた。
「誰か、陛下をお連れしてきてくれませんか。」
 その場にいた全員が、弾かれたように医師を見た。もはや驚きはなく、ただ悲し
みがその顔にはりついている。信じられないというように首を振る者もいた。医師
もまた、辛そうに女中らを見回してから、もう一度静かに言った。
「今ならまだ間に合います。誰か、早く陛下を……。」
「わかりました。」
 いちばん扉の近くにいた女中が目じりを拭いながら出ていった。そして、眠れず
にいたのだろう、王は呼ばれてすぐにやってきた。
「おお、なんと言うことだ……。」
 王はそっと妻の手を取った。ふっと、王妃が目を開く。濡れた瞳で最愛の人の姿
を認めると、震える声で囁いた。
「……陛下、私はもう……。せめてこの子だけは……どうか、健やかにお育てくだ
さいませ。……うっ。」
 熱に苦しみながら、王妃は残り少ない体力を振り絞った。握り締めた手に、震え
が伝わってくる。女中の一人が、慌てて産湯を用意しにいった。が、医師は知って
いた。生まれてくるその子も、もはや息をしていないだろうことを。だからといっ
て今はそれを言えるはずもなく、唇をかんでひたすら沈黙を守るしかなかった。
 ずるり、と生まれた赤子は、産声を上げなかった。
 それでも、満足したかのように王妃もまた、その命の日を消した。
「逝ってしまったか。我が子の顔を見る間もなく。……そうだ、子は男か、それと
も女か?」
「男のお子様でございます。しかし、陛下、申し上げにくい事ながら……。」
「死にはしませんよ。」
 絞るような医師の言葉を、若い男の声がさえぎった。振り返ればいつからそこに
いたのか、若い男女の二人組みが入口に立っていた。ゆったりとした神官衣と頭に
かぶった布のために顔は見えない。何とはなしにこの場にそぐわない雰囲気をもっ
ていた。
 見知らぬ人物の乱入に、医師が誰何(すいか)の声をあげようとする。その寸前
に王がため息混じりに声を出す。
「おまえたちか。なぜ出てきた。」
「王子の誕生を祝福するために。」
 答えながら二人は部屋に入ってきた。王が何も言わないので医師にはそれを止め
られない。ただ二人の行動を見ていると、女のほうが不意に動かない赤子を抱き上
げた。訝しげな医師を無視して、女はいとおしそうに腕の中の子を軽くゆすった。
泣いている子どもをあやすような動作。その子は身じろぎ一つしないというのに。
「待っていたのよ、貴方を。さ、早く目を覚まして。この世界を見てちょうだい。」
 と、何かつかえていた物が外れたかのように、王子は激しく泣き出した。医師は
もちろん、周りで見守っていた誰もが驚き、また神に感謝した。
「奇跡だ……。」
 かすれた呟きを耳にして、神官衣の男が薄く笑った。
「奇跡などではない。神が、あの方を必要とされたのだ。」
 寄り添うように戻ってきた女が、彼の言葉にうなずいて、ついとアネサリアに顔
を向ける。
「そう、これから起こる事にあの小さなアネサリアはなくてはならないのです。大
切にお育てなさいませ。」
 思わせぶりな口調は明らかに王の気分を害した。片方の眉をつり上げて、女を見
やる。
「言われずとも妃の残した大事な子だ。おまえたちの言いたいことなど知ったこと
ではない。用はない、早々にこの部屋から立ち去れ。」
 不愉快そうなその言葉に、二人は表情を変えるでもなく一礼して部屋を出ていっ
た。ちょうどそこへ、女中が綺麗になった赤子を見せに来る。途端に王の表情が和
らいだ。王は我が子を抱きあげ、しばらく笑顔で見つめていたが、不意に腕を高く
伸ばした。天におわす神に届けとばかりに声をあげる。
「主よ、ご照覧あれ! 今新たに主の血を引く子が誕生した。名をカルマン、カル
マン=シーンとす。願わくは主の御声をよく聴き、恩寵豊かな時代を築く者となら
んことを!」
 そして再び時は流れ、奇跡の子が成人して王位を継いだ頃。世界は静かに、しか
し大きく動き出そうとしていた…………。